無料ブログはココログ

リンク

2006年7月 6日 (木)

人体実験体験記 -Vol.16-

   16

 最後のモーニング・チェック、バイト代の支払い、及び僕の人体実験モニターのアルバイトの完結に向けるべく、引き続き日記より抜粋し、このレポートの最終章とする。

430日(水)

 モーニング・チェックに行く。定例どーりの診察、朝食を与えられ薬の服用をし、帰路につくことになるのだが、今回、少し目新しい体験をした。それは帰路につく際のコトなのだが、いつも送迎してくれる中年の黒人男性ドライバーが、僕とペアを組む中年日系人男性を家に送る途中、僕達の他にも乗り合わせで送迎しないといけないので、今日はいつものルートから外れるというのだ。異論なく車のフロント・シートに身を沈める。

 車が向かった先は、僕達が二度の監禁実験を体験した、DOWN TOWNの西外れの八、九階建てになる病院だった。何でも、僕達が被験する糖尿病の新薬とはまた別の新薬開発プロジェクトが行われていて、その新薬のモニタリングが僕たちの場合と同様に行われているという。その別プロジェクトのモニター患者を一緒にピックするというのだった。

車内で待ってろというのでおとなしく待っていると、黒人ドライバーはビルの中に入っていった。しばらくして彼は二人の若い白人男性を連れて車に戻ってきた。後部座席に乗り込むその二人の様子が少しおかしい気がした。言葉を少し交わしてみると、言葉のドモリ具合が激しい。何の薬の実験をやってるのかたずねてみた。医学的な用語を英語で言われたので完全には理解できなかったが、雰囲気としては、“鬱病患者をアゲアゲにする”薬、つまり抗鬱剤の類であるらしかった。

何でも、この実験のモニターに選ばれる枠としては、“白人男性で、強度の躁鬱症を抱え、しかも自殺癖がある者”を対象としているらしい。嘘か本当か、真偽の程は知らないが。

そういう話を聴いていると、“糖尿病用の新薬なんて甘っちょろい!”と思わずにはいられなかった。もちろんだが、僕としては躁鬱病患者のアメリカ人と話すのは初めてだったので、色々驚嘆することが多かった。

 彼らを送って僕が帰宅すると、もう正午に近い時刻だった。住所がDOWN TOWNの東に位置するとあって、僕はいつも送りが一番最後に回されるのだ。帰宅してから昼食も摂らずに急いで家を出る。昼から、昨日、友人のアツシにもらっていたフリー・パスを使うべく、UNIVERSAL STUDIOへデートに行く予定だったのだ。

 デート相手の女の子をピックしてUNIVERSAL CITYへ向かう。彼女は同じ語学学校のクラス・メイトで、黒髪の美しい中国人の女の子だった。中国名は発音が難しいので、JENNIFERと名乗っていた。彼女は日本に五年程留学していたので、日本語もペラペラだった。僕達は大抵、拙い英語を使っていつも会話していたが、疲れると日本語に移行した。

 この十年以上、遊園地系テーマ・パークとは無縁の生活を送っていたのだが、それこそテレビで見たことあるようなアトラクションを目の前にすると少し興奮してしまう。この日が平日ということもあって、園内の人影は少なめなようだった。おかげで長蛇の列に並ぶというのもなく、スムーズにアトラクションを楽しめたのが良かった。有名なアトラクションはほぼ全部回れたと思う。お化け屋敷的なMUMMYというアトラクションでJENNIFERはあまりに怖がりすぎて、最後には腰を抜かしてへたり込んでいた。天気が良く、いかにも行楽に向いた日和だった。園内の売店でハンバーガーを買って食い、夕方まで遊んで回った。フリー・パスだったので、かかったお金は駐車場代の八ドルとハンバーガー代くらいで済んでしまった。安上がりなデートだ。

 さすがに五時間以上歩き回っていたのでスッカリ疲れきっていた。彼女を家に送って帰宅すると、夜も早い時間からすぐに眠り込んでしまった。

51日(木)

 昼まで学校へ行き、帰宅すると夕方まで昼寝する。お気楽な生活だ。夕方起き出し、友人宅へ向かう。知人がTORRANCEにてトランスのイベントを催すというので行ってみた。早い時間に行ったので、客数が少ない。トランスはどうも専門外なので踊ることはおろか、ビートにものれない。小一時間してNORWALKの方へ移動し、在米エイジアン系のプロモーター集団の手掛けるイベントに顔を出した。こちらも客数は少なかったが、やはりHIP HOPなのでガンガンに楽しめる。人影まばらなDJブースの前で一人ノリまくって踊っていると、メキシカンの女の子がやってきて、一緒に踊ろうと誘われた。鼻血が出そうな程、エロい腰つきで密着されて踊った。参ったね。一時間程してまた移動。SANTA MONICAの方へ行ってみた。行きつけのクラブでは、今夜はサルサ・ナイトだという。エントランス・フィーが無料だったので入って、いつもとは違うゆったりしフロアの雰囲気を楽しんだ。三件のイベントをハシゴしたが、まったく金を使わなかった。貧乏な僕の懐に優しい夜だった。

52日(金)

 最後のモーニング・チェック日。つまりこの一ヶ月に渡って続いた新薬の人体実験も今日で終了し、晴れてバイト代が手に入るのだ(とはいうものの、半額分は先払いで既に受け取ってはいたのだが)。それにも増して、何かと拘束されるこの被験者の生活から開放されるというのは、いかにも心が晴れやかになった。

 この日は最終日なので、定例の診察はあったが、薬の服用はなく、したがって、いつも出されていた朝食もない。あとはバイト代のチェックを受け取るだけで、ごく簡単にコトが済んだ。これでもう、このクリニックに来ることは二度とあるまい!

 帰りの車の中、ドライバーから、「病院の看護婦の一人から、貸したCD-Rを返して欲しい、と伝言を頼まれたのだが。。。」と話し掛けられ、ある意味驚いてしまった。たががCD-Rくらい、いくらでもコピーできそうなものを、わざわざ返してくれだなんて!しかし、当然悪いのは僕の方なので、もちろん返さないワケにはいかない。家に到着すると、ドライバーに少し待っててと言って急いで室内に駆け込み、CD-Rの持ち主である黒人の看護婦に謝罪の手紙を簡単に書きなぐった。その手紙と、お詫びに友人からもらったMIX CDを看護婦のCD-Rに加えてドライバーに渡した。看護婦にゴメンねって伝えといて、とドライバーに伝言を託し、車を離れ、自室にまた戻った。

こうして僕の人体実験体験は幕を閉じることになるのだが、ここで少し後日談を。

 モニター終了から一ヶ月程経ったある日、電話がかかってきた。何と、病院から話があるという。何だろう?といぶかしんでいると、新しい新薬開発のプロジェクトがあるのだが、もう一度モニターをしてみないか?とのコトだった。何の種類の薬だ?と問うと、新種のインフルエンザに対する予防薬だということだったが、さすがにコレは怖いので辞退しておいた。どう考えても、インフルエンザは怖いでしょ?!ウィルス関連はドン引きしちゃうよ。

 兎にも角にも糖尿病用の新薬が僕の体の中に持ち込まれてしまったのだ。果たして、この新薬のいかなる作用が、将来に僕の体内に現れたか否かは依然分からないままだが、まあそれもよかろうと思う。もしかすると薬がメチャクチャ効いていて、僕は元来自身の体内に抱えていた糖尿病の気を撃退してしまっているのかもしれないし、あわよくば、僕はこれから先、二度と糖尿病を患うことはないのかもしれない。はたまた薬の副作用が今も僕の体の組織を犯し続けているかもしれないし、あるいは僕の余命幾ばくとも知れない状況であってもおかしくない(否、やっぱおかしいかな?)。

 まあそんなこんなで、こうやって想像膨らませるだけでもファンタジーがあって、しかも、不味いながらも食事付きで、更にお金まで貰えるんだから、なかなかおもしろい体験じゃないかな。

 退屈なL.A.の日常生活に飽きたヤカラどもに、人体実験体験お勧めしよう!

 

 

     

 

 

 

 

このレポートを、僕のL.A.での貧乏生活を

惜しみなくサポートしてくださった

ヒロさんヒロミさんご夫妻

アツシタミコさん夫妻

アミさん

シンさん

ミノルさん

プロモーター・クルーの皆

そして

今もストラグルし続けている在米日系人の皆に捧げたい。

 

PEACE & ONE LOVE

 

 

2006年7月 5日 (水)

人体実験体験記 -Vol.15-

   15

 引き続き、日記より抜粋して書く。

426日(土)

 昼頃目を覚ます。いつものようにアテもなく近所のTOWER RECORDSに入って新譜をチェックしたり、雑誌を立ち読みする。三時頃にWEST L.A.の友人宅に向かい、SANTA MONICAの服屋で行うインストア・ライブの準備を手伝う。

 SANTA MONICAPROMENADEに近いそのショップは、観光客もよく通る絶好のシチュエーションに店を構える。店内はいかにも拓けて明るく、西海岸特有のラフな、感じ良い雰囲気で満たされている。

 そこで気軽なDJのインストア・ライブを行うのだが、僕の方は夕方から予定があったので、とりあえず準備の手伝いだけしに行ったのだった。車に積んだターンテーブルやミキサー、コード類に、クレイツを一杯詰めたレコード・バッグ、更にはDJブースの土台となるテーブルまで持参で店内に運び込む。ある程度セッティングして、音出しが終わったところを、頃合いを見計らって僕は店を出た。今夜は別の友人が、BEVERLY HILLSの方でラウンジ・パーティーをするというのだが、こちらの方も辞退した。

 そうまでしての用事とは何だったのか?実は、ご近所に住むヒロさんヒロミさん宅で行われるバーベキュー・パーティーに招待されていたのである。

 夕方六時過ぎ、10Fwyから60Fwyへと継いで車を東に駆り、ご夫妻宅へ向かう。さすがに手ぶらで伺うのは悪いので、スーパーに寄って缶ビールを一箱買い、それを持ち込んだ。

 他の客より早めに到着し、何やかやと準備を手伝う。普段、ご夫妻にはお世話になっているので、こういう時に働いて、少しでも役に立ちたいと思う。七時頃にはゲストが続々と集まり、バーベキュー・パーティーが始まった。

総勢ニ、三十人くらいが集まってのパーティーだった。客層はその九割がこの地で働く日系人で、会話も日本語が主立っていた。こちらで暮らす日系人はこよなく日本を愛している人達ばかりなのだが、このパーティーの中でも至る所に母国への愛情が滲み出ている会話を耳にすることができた。

人が入れ代わり、立ち代わりして、バーベキューやドリンクに舌鼓を打つ。実に美味いモノばかり並んでいる。ヒロさんお手製のタレに漬け込んだ手羽先、ビーフにポーク、それにサンマまで、普段の僕の食生活からすれば考えられないようなご馳走を一時に口にできるのだ。野菜も瑞々しくて美味い。暑い中、汗をかきながら飲むビールがこれまた美味かった。まるで竜宮城に迷い込んだかのような気分になる。

二時間程、外でバーベキューを楽しみ、それからは屋内へ移動し、酒を飲みながら歓談を楽しむ。僕は、遅れてパーティに参加された姉貴分のアミさんと二人で話していたのだが、彼女の仕事の話などを聴いて感銘を受けていた。彼女は航空会社で働く、いかにもバリバリ仕事をこなしている風な女性なのだが、そこにつきまとうストレスはやはり相当なものらしい。しかし、そのストレスを打ち破る彼女の仕事への情熱とそのバイタリティーに改めて目を見張るものを感じた。

徐々に客が減っていき、深夜、最後まで残っていた客は僕やアミさんを含めて四人になった。深夜の二時半に解散したのだが、帰り際、ヒロさんにシャツとパンツ何着も戴いてしまった。涙が出る程嬉しかった。しかし、長身で足の長いヒロさんのパンツを、そのまま背の低い僕が履くと、ただでさえ短足な僕の見た目が更に際立って、後で皆に涙が出る程笑われるのだけど。

427日(日)

 昨日は大いに楽しんだので、この日は節制し、酒も飲まないようにした。気付けばいつも飲んだくれてるので、少しは自重しないとなあ・・・なんてなコトを考えつつも、どうせ僕のコトだから、三日と経たない内にまた飲んだくれてるのだろうな、と容易に予想できる。そういう点で、僕の脳はニワトリと同じレベルなのだ。三歩歩いたら全部忘れるのだ。

 とにかく、この日一日は飲まないでいた。家でのんびり寛いで、音楽を聴きながら本を読んで過ごした。

428日(月)

 モーニング・チェックに出掛け、その後、学校にも出る。そういえば、毎回、モーニング・チェックの際に持ち帰らされる実験用の新薬は、僕は家では飲まずに捨てていたのだが、病院側にはデーター的にバレてないのだろうか?僕のデーターが必ずフィード・バックされてこの糖尿病の新薬が開発され、やがて世間に販売されるハズなのだから、そう考えると、将来この糖尿病用の薬を服用する人達に申し訳なく思えてきたりする。コレを読んだ皆様の中で、将来、糖尿病にかかった人はくれぐれもその薬に注意してくださいね!とはいっても、どう注意すればいいのかわからんが。。。

 余談だが、薬についてもう一つ。僕とペアになったもう一人の被験者の話。監禁検査やモーニング・チェックは二人一組でモニタリングされるってのは以前にも書いたと思うが、僕とペアになった、いかにもシケたホテル住まいがよく似合いそうな中年の日系人が、もうそろそろ終わりを迎えるこの新薬の実験モニターに関して、この朝の病院帰りの車の中ですごいことを言った。

「この薬、実験が終わってからももうちょっと飲み続けたいんだよね。。。病院に頼んだら余分に分けてもらえるかな?

・・・・・参りました!しかし、よくもまあこんな得体の知れん薬を欲しがるもんだ。すげぇよ、オッサン。さすが五十代前後の齢で、アメリカの地で無職で暮らしてることだけのコトはあるよ。

429日(火)

 今日はモーニング・チェックがないハズなのに、朝早くに送迎のドライバーからの電話で起こされた。今日はないハズだ、と言っても聞き入れない。頑固な親父だ。病院に確認を取れと電話を促すと、朝早いので留守電になってしまう。とにかく、ドライバーはどうしても送迎しないといけないのだと言ってきかないので、仕方なく車に乗せられてBEVERLY HILLSのクリニックへ連れて行かれる。LITTLE TOKYOの片隅のシケたホテル住まいの僕のペアとなる中年日系人も、僕と同じく電話でたたき起こされ、半ば強引に連れ出される。

で、病院に着いてみると、案の定、今日のモーニング・チェックはないですよ、と言い渡される始末。オイ、ドライバー!ありえへんやろ!腹が立ったので、帰宅してから病院の担当者に電話して、今日の被害を話して、この日の分のバイト代も追加で払えと掛け合ってやった。さすがにこの要求は通らなかったが、それにしてもくだらない他人の勘違いで、僕の貴重な朝の時間を損ない、気分も台無しになった。

 昼からはプロモーターの営業のアポを入れていたので、急いでDOWN TOWNに向かう。友人と一緒にFIGUEROA ST.沿いにあるネット・カフェに行き、そこのオーナーにイベント協賛の営業をかけた。直接的な話には結び付かなかったが、また別の方向で話が膨らむかもしれない手応えはあった。

 その後、大学時代からの親友のアツシのところを尋ねる。彼からUNIVERSAL STUDIOフリー・パスを二人分もらう。このパス、期日が明日の四月三十日で切れてしまうとのコトで、それで都合のつかない彼から譲ってもらうことになったのだ。さて、二人分のパスなので、誰か誘わないと。さすがに一人では行きたいとは思わないし。。。

 それからアツシと一緒に彼の家の近くに住むミノルさん宅に伺い、そこで男三人で適当にメシを食い、ビールを飲みながらNBAのプレイ・オフのLAKERSWOLVESの試合を観戦した。

今日は平日なので夜も早めに切り上げて帰宅すると、早速、明日のUNIVERSAL STUDIOへのデートの相手を探すべく電話を手に取った。ウィーク・デイの昼間で暇を持て余しているというと、やはり語学学校の生徒辺りが妥当なところだろう。というワケで、以前、語学学校で同じクラスだったチャイニーズの女の子を誘って行くことになった。

 

 

 

つづく・・・

 

  

2006年7月 4日 (火)

人体実験体験記 -Vol.14-

   14

 前回時と同様、監禁実験後からの二週間に及ぶモーニング・チェックと、そのインターバル中の僕を取り巻く日常生活を、日記より抜粋して書き記しておく。

422日(火)

 さすがに同じ過ちを繰り返す程、僕はどうやら愚かではなかったようで、昨夜は飲酒を控えておいた。前回の監禁実験を解かれ、帰宅した夜に思いっきり飲酒し、その明け方にヒドイ目にあったのだったが、そういった肉体的に迫る理解不能の恐怖に対して、僕の精神はそれ程タフではなかった。

 そういえば、昨日、監禁を解かれる間際まで、どうしようかと迷っていた借り物のR. KELLYCD-Rは、気付けば家に持って帰ってしまっていた。パクるつもりはなかったのだが、ついつい返しそびれてしまったのだ。どうせこんなモノ、僕にとっては何の役にも立たないのだから、これは意図的にパクったのではないのだけど。。。(なんてなコトをいうと、R.KELLYファンの女性方に叱られるかもしれないが)しかしながら、こうやってこのCD-Rを手元に置いていると、不可抗力だったとはいえ、結果的にパクってしまったという罪悪感も覚えないではない。なので、もうしばらくして生活が落ち付いた時にでも、このCD-Rを日本にいる後輩の女の子に送ってあげよう。ヒドい話ではあるが。

さて、この日は朝から学校へ行き、昼までしっかり勉強をして帰宅する。といっても、まだ教科書が揃っていないのだけど。というワケで、USEDの教科書を売ってもらうべく、同じ学校に通う知人宅に伺った。その知人は四十代の日本人女性なのだが、在宅されていた旦那さんと一緒に話が弾んで、そこで何故か昼食をご馳走してもらうことになってしまった。初めて伺った先で、しかも旦那さんの方とは初対面だったにも関わらず、ついつい長居してしまう僕の神経の図太さに改めて気付かされた。元々人見知りが激しく、初対面の人に対しての僕の遠慮は結構慎み深かったハズなのに!やはり現在の環境にアジャストしているってコトなのだろうか?

その夜、友人がLITTLE TOKYOのバーでギグを行うというので行ってきた。前回、服屋のイベントが行われ、ついでに僕のバースデイ・パーティーを催した同じバーである。とても小さなギグで、客数はバンドマンの数が同じくらいしか入っていない。友人を批評するのもアレだが、レベル的にも大して見栄えしない演奏だった。

僕は財布に三ドルしか入れてなかったので、バーテンダーに「これで飲める酒を出してくれ」と有り金全部出してオーダーしてみた。 ウィスキーは好きかい?」とバーテンダーが尋ねてきたので、「もちろん」と答えると、銘柄は判らないがスコッチ・ウィスキーのストレートをダブルで注いでくれた。「サービスだ。飲みな」ぶっきらぼう差し出してくれたロック・グラスに彼の人情味が溢れているのを感じた。これだから酒は止められない。

盛り上がりに欠ける演奏を聴きながらウィスキーを舐めるようにチビチビと飲み、深夜になる前に、「また来るよ」とバーテンダーに声を掛け、店を出た。

423日(水)

 学校が終わってから午後の早い時間、ずっと一人で飲んだくれて酔っ払っていた。夕方頃にはスッカリ出来上がっていて、あとは堕ちる一方ってトコロだったんだけど、そこで電話が鳴って引き止められる。ご近所に住むヒロミさんからで、夕食のお誘いだった。「今夜はトンカツよ」との言葉に、酔っ払っていた僕も思わず興奮してしまった。

 トンカツ・・・それはもう半年以上口にしていない、当時の僕にとっては魅力溢れる高級料理に属する。(チャイニーズ・レストランで似たようなモノは食っていたが、やはり日本人としては、定番のソースと白米で食うことをどうしても夢見てしまう)そんな食事にありつけるなんて、酔っ払ってなくても舞い上がってしまう。その時はしこたま酔っ払ってたから、更に舞い上がってしまった。

 その期待に違わぬ大変美味しい食事だった。憧れのトンカツはジューシーで、柔らかい肉が口の中でほどけていく。それがソースと相俟って、白米を食べる箸の動きをドンドン加速させていった。付き合わせには大根の味噌汁。これが更に日本食への憧憬を煽っていく。実は、トンカツ以上に感動してしまったのは大根の味噌汁の方で、それは僕の貧乏性を大いに反映しているのかもしれないが、後々、そのトンカツの食感などを思い出そうとすると、かえってその味噌汁の中の大根の食感や、合わせ味噌の深い味わいの方が強く口の中に想起されてしまうのであった。

 ともあれ、家族の一員のようにしていつも僕の面倒を見てくださるヒロさんヒロミさんごに対して、感謝の念が絶えない。

424日(木)

 モーニング・チェックに出掛け、帰宅すると学校へ向かう。大学生の頃、ほとんど授業にも出ないで遊び呆けていた僕としては、たかだか語学学校の授業であってさえも、こうやって毎日出席しているってコト自体に、自身の価値観の大きな変化を見て取れる。

 夜、NORWALK辺りで行われる在米エイジアンのプロモーターが主催するイベントに出掛けてみた。比較的に新しくでかいモールの中にある、夜九時まではスシ・バーとして経営されている店でそのパーティーは行われるのだが、店内は中箱規模で、フロアが横に長く広がっている。入り口を基点にしてフロアは左右に分かれているのだが、左右両方にそれぞれDJブースが設置されていて、それ程離れていない所で違ったグルーヴが産み出されているのが面白かった。

行列ができたエントランスを脇目に、中のプロモーターからV.I.P.扱いで招き入れられる。パンパンに詰まったフロアの客層はその八割がエイジアンで、後の二割はメキシカン系だった。女性客が多く、密着して踊れるのが楽しい。

僕は特にこの在米エイジアン系の主催するイベントが好きで、よく通ってたのだが、そのイベントに集まるエイジアン系の女の子の質の高さとエロさが何よりまず気に入っていた。僕はフロアでは、好きな楽曲がかかるとガンガンにアゲて、エキセントリックに踊りまくるだが、それが目立ってよく女の子たちから一緒に踊ろうと誘われたものだ。その際の腰を擦り付け、腕や足を絡ませてくるようなエロさでいうなら、やはりエイジアン系の女の子のエロさは群を抜いていた。

それに加えて、在米エイジアン系のHIP HOPコミュニティーの中ではDJのレベルが非常に高い。西海岸アンダーグラウンド界の雄、DILATED PEOPLESで知られるDJBABUの所属するDJ集団、BEAT JUNKIES直系のイベントなので、そのテクニックに疎い僕でさえも、彼らが目の前で引き起こすターンテーブリズムのマジックの凄まじさには酔いしれる程であった。

とにかくこの夜も、テクニカルなDJ達と、キュートな女の子達で、大変素晴らしい時間を過ごせた。

425日(金)

 学校は休み。ゆっくり朝寝坊できた。昼頃に目を覚まし、寝覚めからウォッカを啜り始める。空腹の胃にの中で燃え上がるようにしてウォッカが流れ込む。ロック・グラス一杯に注いだストレートを数時間かけて五、六杯飲み干すと、夕方にはすっかり出来上がっていた。

 夕食を摂って、夜が更けてからSANTA MONICAの方に出掛けてみる。MAIN ST.に建ち並ぶバーに当て所なく入ってみる。こういったバーではクラブ・イベントというのではないのだが、店内にはDJブースが設置されていて、猫の額ほどの狭いフロアで踊ることができる。エントランス料が要らないというのも魅力である。中は酔っ払い達でギッシリと詰まっていて、皆でギュウギュウになって押し合いへし合いしながら踊るのである。客層は六割が白人系で、残りの四割が黒人系。エイジアン系は僕も含めて片手で数える程だ。財布にはCORONA一本分飲むだけの金しか入ってなかったので、とりあえず一本飲み、しばらく踊ってから、同じ通りにある同じようなバーにハシゴして、そこでは酒も飲まず(飲めず)に踊ってきた。

深夜過ぎに帰宅し、テレビを見ているとROC-A-FELLAの作った映画がやっていたので、朝まで観ていた。どうしようもないヒドい映画だった。

 

 

 

つづく・・・ 

 

 

2006年7月 3日 (月)

人体実験体験記 -Vol.13-

   13

 第二回監禁実験二日目。

 前回と同様、朝の六時に起こされる。今回こそは注射を失敗してくれるな!と祈りつつ左腕を差し出したが、案の定失敗しやがる。もう、ホンマにありえへんし!

左腕で二度失敗し、今回も結局、右腕を犠牲にすることになってしまう。ここまでくればもう、ナース達の注射の技量が低いことを呪うべきなのか、あるいは僕の腕の肉のブ厚いことを呪うべきなのか、判らなくなってくる。とにかくこれで今日一日、また利き腕を制約されることになるのだが、これは大変に気の滅入る枷となるのだった。

 この時期のL.A.では珍しく朝から空模様が優れない。膜が張ったように薄い灰色雲が上空を覆い、街全体が白くぼやけて見える。そんな景色を眺めながら、与えられた朝食を何の感慨もなく平らげる。

 朝食後から昼食を跨ぎ、夕刻に至るまで、僕はその大半の時間を哲学的な瞑想に耽って過ごした。ノスタルジックな感傷も、僕が描き出す殺伐とした無味乾燥のブラフマン(梵)の内に溶け合って消えていく。僕は自由を奪われた右腕を使って、煩雑なその瞑想をできうるかぎり言葉に置き換えてノートに綴っていった。

 改めてここに特筆すべきようなことはなかった。それはまったくのリプレイであって、新たな発見もほとんどなく、新たな感動も当然そこには生まれない。しかし、それこそが病院側の思惑でもあるのだ。彼らはモニターの環境を整える為に監禁してまでの実験を行なっているのだから。

 朝食はともかく、前日の夕食や昼食はもちろん、この日の夕食も前回時と変わらずとにかく不味いものだった。不味いものが出てくるってことが分かっているので、もう食事のトレーに見向きもしない程だった。だからメニューに何が出ていたかほとんど覚えていない。そのメニューを選ぶ用紙を書いたのだって忘れる程、ここでの食事は最初からなかったものにしようとしていたのだった。

 そして僕の栄養源の補給は、あてがわれる食事の時間の合間を縫って、給湯室に駆け込むことで何とか確保していたのだった。レンジでチンして作るタイプの、バターと塩気がタップリのポップコーンと、カロリー・ハーフのスプライトに神の賞賛あれ!

 一時間おきの採血と液体注入、血圧や心電図の測定などは滞りなく行なわれた。これも前回時と何ら変わるところのないルーティンだったのだが、あえていうと、液体注入時、注射針の刺さった血管が不自然な程の圧迫感を感じ、重い痛みをもって利き腕にダメージを与え続けた。体の内部から外に向けて走る類のその痛みは、まさに鈍痛で、長い時間、内に篭る。その鈍痛に意識を集中させると、腕の血管辺りの細胞が十個、二十個程すつ圧死している様を毎回容易にイメージできた。

 日曜の夜のHOLLYWOODの街はどこかネオンが寂しげだ。その様相はまるで閉店後のパチンコ店を髣髴させる。101Fwy上はもうすぐミッドナイトだというのにも関わらず、切れ目なく車が走っている。曇っているからだろうか、夜闇はノッペリとしたフラット・ブラックで上空を覆っていて、ここからは星一つ、人工衛星一つだって見えやしない。

 

 

 

 監禁実験三日目。

  右腕の注射針も外されて、自由になった右腕の注射箇所を撫ぜ摩る。推定二百個あまりの圧死した筋肉細胞のコトを想い、深くため息をつく。

ウィーク・デイがまた始まり、フリーウェイ上は絶え間ない車の波が行き交い、人々は週末のパーティーの残り香を引き摺りながら、日常生活に戻っていく。僕はといえば、そんな窓の外の世界を他人事のように眺めながら、持ち込んでいたドフトエフスキーの文庫を読んでいた。

 昼食後、これが最後となるであろうポップコーンスプライトを採取。指をバターでベトつかせながら、口一杯に頬張るインスタント・ポップコーンのヤクザな塩気が今は懐かしい。

 夕方まで転寝を繰り返す。その間、たくさんの夢を見たようだ。その夢のほとんどはストーリー性が無秩序で、ただランダムに僕の日常生活を取り巻く人物たちが何人も現れては消え、筋のないブツ切りのシーンを築き上げていった。脈絡のない台詞と、転々とする舞台設定が、微かな転寝と微かな覚醒の間で繰り広げられ、ようやくきちんと目覚めた僕に浮遊感にも似た奇妙な感覚をもたらした。病院のベッドで見る夢なんてモノは、案外そういった魔術めいた作用が働いているモノなのかもしれないな。僕の深層心理に渦巻く問題の数々が一時に湧き上がって、心のドアを乱雑にノックして行ったような、そんな気分だった。

 夕方になる前、借りたR. KELLYCD-Rを返す為にナース・ステーションや七階フロアーを行き来し、持ち主の黒人女性のナースを探した。しかし、彼女の姿はどこにもなかった。多分、今日はオフなのだろう。

さて、、、どうしたものだろう?R&Bにまったく興味のない僕としては、例えこれが流出モノの希少価値であるR. KELLYの非売品コピーであろうと、なかろうと、興味のないのには何ら変わらない。つまり、パクるに値しないのである。だから僕としてはきちんと返しておきたかった。

単純な返却方法としては、他のナースに預けて彼女に返してもらう、ってのがある。しかし、僕としては見ず知らずの他のナースをそこまで信用していいか、判断がつかなかった。彼女たちがパクってしまうという恐れも充分にあるのだ。あるいは女性ファンが熱狂するR. KELLYの作品なのだから、それは大いにありえる話だった。

どうしようか考えあぐねている内に時間はドンドン経過していく。最後にはどうでもよくなってしまった。

考えることを放棄して、この部屋で見る最後の美しい夕暮れの景色を楽しんだ。夕陽は西の山の端に掛かってから丸三分ともたず、彼方に沈んでいった。色鮮やかに潤んだオレンジ色に燃え上がる夕陽の最後の一滴に至るまでその光を享受し、やがて街並みは一日の色彩を静かに落としていった。空の北側の三分の一程を覆っていた厚い雲は早くも闇を吸収して、重々しく黒々と横たわるように見えた。

トラフィックに捕まり、ゆっくり行き交う101Fwy上の車のヘッドライトやテールランプの波も、欲望の色を湛えたようなHOLLYWOODのネオンも、これで見納めとなる。僕はまた僕の持ち場に戻るのだ。

まだ空には明るみが残っていたが、それも十数分後にはやがて闇が全体を包む。僕は見慣れつつあったこの窓辺の光景を後にした。

 

 

つづく・・・ 

 

2006年7月 1日 (土)

人体実験体験記 -Vol.12-

   12

 朝、慣れぬ環境に体が敏感に反応したのか、八時頃には目を覚ましてしまっていた。睡眠時間は三時間も経っていなかった。身を起こすと、友人のミノルさんと初めて会った女の子二人が床の上でまだ雑魚寝してる。僕は一人で起きだして、テーブルの上に残っていた昨夜の黒ビールの残りを飲み干す。当然のコトだが、炭酸が抜けた黒ビールはその苦味をしか口の中に残さなかった。僕は冷蔵庫からもう一本黒ビールを取り出し、所在無げに飲みながらテレビをぼんやり眺めていた。チャンネルはDISCOVERY CHANNELで、爬虫類の特集をやっていた。十時過ぎに皆起きだし、グデングデンのまま四人で会話していたが、休日の朝にワケもわからず同じ場所に居合わせた者同士の会話としては、不思議と親しみが沸いてくるものであった。

 帰りの際、路上に止めた車のフロント・ウィンドウのワイパーにチケットが挟まれていた。ショック!約四十ドルの罰金を支払わないといけなくなった。コレは大きな痛手だ。アメリカで車を運転するようになって半年足らず、僕にとってはこれで三枚目の駐車違反のチケットだった。どうもシステムに馴染めないでいる。。。

 ミノルさん宅から急いで帰宅し、昼食を摂ってからシャワーを浴びる。そして今日からまた二泊三日で行なわれる病院での監禁実験に備えて、荷物の準備を整える。荷物は前回時とほぼ同じものを用意して持ち込んだ。前回時との持ち物の違いは、新たにCDの新譜が二枚増えていて、その他にも、前回時に読み終えてしまった、ドナルド・トランプについて書かれた『トランプ自伝』の代わりに、日本から持ってきていたドフトエフスキー『地下室の手記』の文庫を持って行った。

 

 

 

まったくのリプレイを見せられているかのような気分だ。

 夕陽が西北西に広がる山の端に広がり沈み行く頃、フリーウェイ上行き交う車の波はヘッド・ライトを灯し、HOLLYWOODの街並も徐々にネオンを灯し始める。やがて上空はにじむような夕日のオレンジ色から紫紺色のグラデーションに取って代わられていく。その光景は、二週間前に望んだものとまったく変わっていないように見えた。

 そして僕は、二週間前と何ら変わることのない監禁実験のルーティンをこれから三日掛けてこなしていくことになるのだ。ほとんど諦めに近い失望感を伴う形で、僕は前回過ごしたのと同じ病室に入って、その病室の西側に面した大きな窓から外の景色をぼんやりと眺めやった。

 とはいえ、前回の監禁実験時と違った場面も少々ある。例えば、病室に到着して早々、僕が荷を解き、真っ先にラジカセでTHE BEATNUTSの新譜を流し、部屋をグルーヴに満たしていると、今回初めて見る顔の黒人の若い看護婦がそれに反応してきた。HIP HOPが大好きなんだと伝えると、彼女の方もうれしそうに答えてくる。

ちなみに、彼女がいくら若い黒人女性だからといって、BEYONCEASHANTIAMERIECHRISTINA MILIANなどをイメージしてもらっては困る。まだ若く、太ってはいないとはいえ、彼女はお世辞にも整っているとはいえない容姿で、太いフレームの眼鏡を掛けたその顔は、産まれたばかりの皺まみれのサルの赤ら顔を思わせるのだ。別に人の容姿をどうこう言える立場ではないのだけれど、一応、とりあえず皆さんには誤解のないように断っておきたかったのである。

そんな彼女が夕食後に一枚のCD-Rを僕に持ってきた。アメリカ黒人女性はおろか、BLACK MUSICファンの女性たちにとってナンバー・ワンのアイドル、R. KELLYのアルバムをコピーしたCD-Rだった。

僕はHIP HOPは大好きだといったが、厳密にいうとラップが特に好きなのである。だから音楽としてはラップの入ったもの以外はほとんど聴かない。手元に購入するのはラッパー名義の作品ばかりで、ごくたまにプロデューサーがメインの作品も買うが、その大体はラップが入っている。つまり、俗にいうR&Bア-ティストに対しての知識はほとんどなく、例えあったとしても、それはラッパーがメインの楽曲に参加しているという程度での知識しか持たないし、つまりそれだけR&Bアーティストに対しての関心が低いのである。

そんな僕に対してR. KELLYの作品を渡されても嬉しくも何ともないのだが、そこはお義理で早速プレイヤーに差し替え、そのCD-Rを流した。後で調べてみると、どうやらそのCD-Rは正規盤のコピーではなく、流出音源を集めたモノらしかったのだが、先程も書いたように、僕にとっては興味をそそる要素はほとんどなかった。

 前回と同じく、不味い夕食をほとんど残して、その代わりにポップコーンスプライトで腹を満たすと、今日から始まるというNBAのプレイ・オフLAKERSの第一回戦をテレビで観戦し、その後は本を読んで深夜まで過ごした。

 

 眠りに就く前、この監禁実験前の二週間のインターバル中にたくさんの方々に心配していただき、食事を誘っていただいたり、何かと世話を焼いていただいたことを改めて思い出し、感謝しつつ、やがて僕の意識は泥の中に潜り込むように深い眠りの中に落ちていった。

 

 

つづく・・・ 

 

 

2006年6月30日 (金)

人体実験体験記 -Vol.11-

   11

414日(月)

 二十七歳の誕生日だった。そんな朝をクリニックにて採血されながら過ごすってのもどうなんだろ?改めてこの状況を考えてみるとまるで何かの冗談みたいだ。

モーニング・チェックから帰宅し、学校へ行く。授業を終えて帰宅途中、TOWER RECORDSに寄った。僕の暮らしていた家から徒歩で五分ばかりの所にタワレコはあるのだが、僕は金がなくて新譜が買えなくても、週に二度はそこに通い、新譜のチェックだけは決して怠らなかった。モニタリング・ブースに噛り付いて、買えない新譜をよく聞き漁ったものだ。

そういえば、L.A.に渡って初めて買ったのが、このタワレコで目にしたCAMP LOの新譜とラジカセだった。渡米初日、ホーム・ステイの契約をして、その夕方、辺りを散歩しているとタワレコを発見した。引き寄せられるように店内に入ると、HIP HOPのコーナーにCAMP LOの数年ぶりとなる新譜が並んでいるのを見付け、大いに興奮した。僕はCAMP LOのファンだったし、更にはプロデューサーSKIの大ファンでもあったのだ。思わず買おうと手を伸ばしたが、ハードが手元にない。それで一番安価なSONY製のラジカセと一緒に買おうとしたのだった。渡米したてとあって、当時はまだ金銭的な問題はない。で、レジに並び、CD一枚とラジカセの代金(確か百ドルもしなかったと思う)を支払おうとした。その際、それこそ渡米したてとあって、支払いを現金ではなくトラベラーズ・チェックでしようとして、店員を大いに混乱させた。まさかこんな店でトラベラーズ・チェックで買い物するような客など他にいようハズもなく、最初は拒絶されたが、身振り手振り交えた拙い英語を使っての交渉で何とか納得してもらったのだった。

 逸れた話を元に戻すと、学校帰り、僕はその行きつけのタワレコに入って、自分の誕生日祝いに新譜を二枚かって帰ることにした。THE BEATNUTSDJ SPINNAの新譜である。以前、家主のCARLの無駄遣いを嘲笑うかのように書いたのだが、こうしてみると僕も大した無駄遣いの性癖を持っている。彼のコトをバカにはできないではないか。

 帰宅し、新譜を聴きながら、誕生日祝いのメールやカードに目を通し、午後の早い時間からウォッカを飲んで酔っ払い、そのまま眠り込んでしまった。

415日(火)

病院から持ち帰らされる薬を飲むのが面倒になって、飲まずに捨てるようになった。

学校へ行き、昼過ぎに帰宅してしばらくすると連絡が入った。友人のアツシからであった。

彼は大学時代からの親友で、僕より一年前にL.A.へ渡っていた。サラリーマンだった僕が会社を辞めて留学しようと決めたきっかけとなったのが彼からの国際電話だった。渡米前からビザや何やかやの手続きに関するアドバイスをしてくれ、また、こちらに渡ってからも、住居や語学学校、銀行口座の開設、運転免許の取得など、彼には何かと面倒を見てもらったのだった。

そんな彼と彼のカノジョのタミコさんが、昨日だった僕の誕生日を知ってか知らずか、夕食に誘ってくれた。夕暮れが西の空を染め替える頃、CENTURY CITYに近い静かな街並の中にあるタミコさん宅に伺った。

ハッキリ言って、僕が在米中食べた和食の中で、タミコさんが作る手料理程に美味い料理は他になかった。まるで小料理屋に出てくるような一品料理が小皿に並んで出てくるのである。ビール赤ワインと一緒に戴き、日ごろの僕の食生活では考えられないような豪勢な晩餐でもてなしてもらい、その夜も歓談を楽しんだ。

416日(水)

 暑い一日だった。日本で言うなら七月土用の丑の日に近い、体中のエナジーを底から吸い取られるように暑い一日だった。

 早朝から慣例となったモーニング・チェックに出向き、帰宅すると学校へ出て午前中の授業を受けて帰ってくる。午後からは特に予定もなく、新しく買ったCDを聴きながら、今日の暑さにグッタリとベッドの上に伸びていた。窓を開け放ち、扇風機の風を強くして回していたが、あまり役には立たなかった。

 夕方頃、ご近所に住むヒロミさんから電話が入り、夕食に招かれた。七時頃、ご夫妻宅に伺い、食事を戴いた。冷奴アボガドの刺身丸干しお味噌汁白米という非常に健康的で美味しい食事だった。今日のような暑い日に冷奴アボガドの刺身は最適だ。その夜も遅くまでおしゃべりを楽しんだ。

元々、ヒロさんヒロミさんご夫妻にはよく食事を招いていただいて、それまでにも色々と面倒を見ていただいていたのだが、僕が人体実験のバイトを始めてから、余計に気を使ってくださって、僕としては二人に対してありがたいやら申し訳ないやらで、感謝の気持ちで堪えない程の大恩人である。

417日(木)

 元来、引き篭りがちで、外で遊び回るより一人で家の中でのんびりやってる方が性に合っている僕としては、この数日、毎日出入りが激しいので、スッカリ疲れてしまっていた。なので、この日は午前中に学校へ行ったきりで、その後は終日部屋に篭って眠りこけてしまった。

418日(金)

 昨日に引き続き、体の疲れが抜け切れていない。午前中、何とか学校に顔を出したがほとんどの生徒が休んでいて、授業自体も締まりがなかった。気分が滅入ってきたので、気分転換に外食でもしてやろうと企んでみた。

 これまで僕が一人で入った外食店は、フランチャイズのバーガー・ショップSTARBUCKS、あるいは吉野家がほぼ九割を超えて占めていた。せっかくだからいつもとは違う店に入ってみようと意気込んで街中を車で流していたが、どうもパっとしない。以前にも紹介したが、僕が住んでいる街はチャイニーズ・レストランが数多いのだが、その他にはメキシカン・レストランもたくさん並んでいる。さすがに昼から中華は重いので避けるのだが、だからといってメキシカンもどうだろう?

 個人的な嗜好になるのだが、僕はメキシカン料理が好きでない。メキシカン料理でいえばタコスなどが有名だが、僕は特にコイツが苦手なのである。コイツの中に入っているドロっとしたペースト状のアボガドがどうしても受け入れられない。何故だろう、刺身にしたアボガドは好物なのに?

 とにかくメキシカン・レストランも論外だ。というワケで、近所のパストラミ・サンドウィッチの店に入って、そこでコーラと一緒にサンドウィッチを食う。大雑把な味だが、悪くなかった。

 家に帰って少し眠り、夕方頃に目を覚まして酒を飲み始める。グラス二杯程ウォッカをストレートで飲んで、酔っ払い始めてきたところで友人のミノルさんから電話が掛かってきた。二リットルのボトルに三分の一程残ったウォッカを抱えて友人宅へ向かう。週末の10Fwyは非常に込み合っていた。

 ミノルさん宅にてピザバーベキュー・ソースのチキン・ウィング落花生ポテトチップスをアテにして酒を飲んだ。もう完全に膀胱熱がもたらすアルコールに対する恐怖心を忘れてしまっていた。僕達は黒ビールを飲み、NAPA産の赤ワインを飲み、ウォッカを飲んで、二人して大いに酔っ払った。

 実はその夜、プロモーター仲間が主催するラウンジ・パーティーがあるということで誘われていたのだが、すでに酔っ払っていた僕はこの状態からパーティーへ行くのも億劫になったので、そちらをキャンセルすることにした。

 そうこうしていると夜中を前にしてミノルさんが女の子を呼び出そうと言い出し、誰かに電話し始めた。十二時頃、女の子が二人やってきて、僕達は更に酒をあおっていった。深夜の三時ごろ女の子の内の一人が眠ってしまったので、残った三人でマンション内に設置されているビリヤード・ルームに行き、何ゲームかプレイした。皆酔ってて、まともなプレイなどできたもんじゃなかった。一時間程して友人の部屋に戻ると、しばらく酒を飲み、そのうち僕たち三人も部屋の中で雑魚寝して眠り込んでしまった。

ちなみにその翌日から第二回目の病院での監禁実験が始まる。土日月の予定で行なわれるのである。

  

 

 

つづく・・・

  

2006年6月27日 (火)

人体実験体験記 -Vol.10-

   10

410日(木)

 モーニング・チェックがないので、語学学校の授業を受けに行く。昼に帰宅し、しばらくすると友人が来て、夕方までダベっていた。七時頃、TORRANCEへ向かい、在米日系人の主催する金融関係のフリーのセミナーに顔を出した。

セミナー後、出席者の一人から食事を招待される。彼は元格闘家(何でもテコンドーの元日本チャンピオンらしい)のシンさんという方で、僕より六、七歳年上なのだが、かなりの熱血漢である。シンさんは、僕が新薬の人体実験のバイトをしていることを知り、僕の生活がそこまで逼迫しているということに対して気遣ってくださったようなのだ。

僕が住む家の近所に宅を構えてらっしゃるヒロさんヒロミさんご夫妻も一緒になって食事を戴いた。イタリアン風のチキンのトマト煮NAPA産の赤ワインと併せて、とても美味い食事だった。また酒を飲んでしまった。。。

 晩餐は結局、翌朝まで繰り広げられた。それ程無茶な飲み方はしていないが、実はその朝はモーニング・チェックの予定が入っていたので、どこか後ろめたい気持ちがする。シンさんから、“もうすでに半額分だけでもバイト代をもらってるのだから、そんな危険なバイトは辞めとけよ”なんて心配していただいたが、僕としてはまだまだ余裕のある状態ではない。ここでバイト代を諦めるワケにはいかなかった。

 解散し、帰宅したのは朝の六時前だった。

411日(金)

 帰宅し、シャワーを浴びるとすでにモーニング・チェックの迎えの来る時間だった。病院へ向かい、定例どーり採血やら心電図やらのチェックを行い、朝食をあてがわれ、薬を飲む。

 前に書くのを忘れていたのだが、実はこの薬、モーニング・チェックの予定のない日も飲むようにと、次回のチェック日までの日数分を持ち帰らせられるのである。当然、この日も次のチェックまでの日数分の錠剤を小瓶に入れて渡された。実質的な数字でいうと、次のモーニング・チェックは月曜なので、この週末の土日の二日分の二錠がこの小瓶に入っている。

病院から帰ると学校に出かけた。語学学校なんて別にきちんと出席する必要性はないのだろうケド、僕としては余程の用事でもないかぎりにおいては休まないようにしていた。限られた貯金から捻出した授業料なのだから、ムダにしたくなかったのだ。

徹夜明けのハイな状態でクラスメイトのタイ人のキュートな女の子と楽しくおしゃべりしながら授業を受けた。学校上がり、以前のタームでクラスメイトだった在日韓国人の女の子と駐車場で話し込み、今度メシでも食いに行こうと電話番号を交換した。う~む、、、何故だかこの日に限って女運が良い。

このまま家に帰って眠ってしまいたかったが、そうはいかなかった。六月に企画しているクラブ・イベントのスポンサー探しで、営業のアポイントを取っていたのだった。他のイベント・プロモーターと落ち合ってWEST L.A.にあるダンス・スタジオに行き、協賛の話を付ける。その後、三時過ぎになってようやく昼飯にありつけた。近くのミツワに入ると、うどんセットをプロモーター仲間に奢ってもらった。食後にDJの男の子の家に行って打ち合わせをしながらダラダラと過ごした。

帰宅したのは夜の八時だったが、まだ眠ることは叶わなかった。留守電にメッセージが入っていて、ご近所のヒロさんヒロミさんご夫妻から食事のお誘いがあったのだ。すぐに合流して、いつものチャイニーズ・レストランでご馳走になった。

僕が住んでいた街はMONTEREY PARKという、チャイニーズがこの街の全人口の三分の一を占めるというL.A.では第二のチャイナ・タウンとされている。そこら中に漢字の立て看板が目に付き、見慣れたアジア系の面影が街中を闊歩している。僕が住んでいるストリートはメキシカン系が多いのだが、それにしても、やはりこれだけアジア系の顔を見ていると、ここが本当にアメリカなのか時々疑わしく思えてきたりする程だった。

そんな街の中だから中華料理には事欠かない。モールのあちこちには大小様々なチャイニーズ・レストランが見て取れる。こういった状況下で僕がよく連れて行ってもらっていた店は、見た目は小さくて見窄らしく、卓数も四人掛けの卓が八つばかりという小規模の店なのだが、見た目に反してここの料理がすこぶる美味い。定番の餃子やシュウマイはもちろん、豆腐をカリカリに揚げて甘辛いソースを掛けたモノや、中華風のソースカツ丼など、大衆的な味わいの中華料理が安価で食べられる店なのだ。その店でご夫妻と、その友人で僕のコトを実の弟のように可愛がってくださっているアミさんという女性と四人で食事を共にした。改めて言うまでもないことだろうが、当然、その夜の食事も大変美味かった。ちなみに今回の食事はアミさんからのご指名が掛かって僕が呼ばれたらしい。

食事を終え、ご夫妻宅へ寄せてもらう。この夜は金曜の夜だ。L.A.では金曜の夜は特別に煌びやかに輝きを増すのである。ビール白ワインを戴きながら、結局夜中の二時までおバカなおしゃべりに興じた。途中から自分の睡眠欲をすっかり忘れてしまう程、楽しい夜だった。

412日(土)

 目を覚ますと体中の節々が痛いのは多分寝不足のせい。もっと寝ていたいと身体が悲鳴を上げているのだろう。しかしこの日も朝早くから予定が入っていたので、起き出さないワケにはいかない。ヒロさんヒロミさん宅で合流して、CONVENTION CENTERへ向かう。金融関連の合同セミナーを受けてきた。付け焼刃程度ながら、徐々に英語力が付いてきたのか、なんとか話の大筋は掴めるようになってきていた。これはあるいは、病院に監禁されたことで英語のみに限られた生活を強いられた、その影響も多分に含まれるのかもしれない。

 昼過ぎ、ご夫妻宅に寄せていただき、昼食をよばれる。夕刻前に帰宅し、少し眠った。眠っている間に二、三の電話が掛かってきたが、全部無視して眠り続けた。というより、体が痛くて起き上がれなかった。

 夜十時、LITTLE TOKYOのバーでパーティーがあるので行ってきた。このパーティーはSANTA MONICAの服屋が主催するモノだった。このショップは今後、僕たちのイベントのバック・スポンサーになってくれるという。LITTLE TOKYOのバーはハコ的にはあまり大きくないのだけど、その分親密感の溢れる空間が出来上がる。ここは時々、JAZZバンドのギグが行なわれたりする店で、以前、語学学校で知り合った友人が演奏するというので見に行ったことがあった。

 ショップのオーナーたちと挨拶を交わして寛いでいると、なんと、クルーの皆が二日後に迫った僕の誕生日祝いをこのパーティーでやってくれた。音楽を止め、照明を落としたフロアの上にロウソクを灯したケーキを運んで、DJから誕生祝いの紹介がなされる。突然のサプライズに気恥ずかしさを覚えながらも、僕は回ってきたマイクで軽くスピーチをして、ロウソクの火を吹き消した。

 その後、パーティーは小さいながらに結構盛り上がった。僕はバースデー・ケーキを食い、用意してもらった赤ワインを飲み、それから今日初めて会うというSAN FRANCISCOからやってきた男に奢ってもらって、しこたま酒を飲んだ。

413日(日)

 朝七時過ぎに起き、TORRANCEで行なわれるセミナーに出席してきた。昼過ぎに帰宅すると、メシを食い、この午後はゆっくり寛いで過ごした。

 ちなみに、僕がこの頃食ってた自炊のメシっていうのは、99セント・ショップで買ってくる六袋で99セントのラーメンか、二袋で99セントのスパゲッティーが主食になる。当然、サイド・メニューなんてモノはありえない。しかも、そのラーメンスパゲッティーにしたって、具が入っていないのが通例である。毎日毎日、ケチャップだけの味付けのスパゲッティーで飢えをしのぐ生活を想像してみてくれ。気が滅入ってくるのは当然の話だ。

僕は自分がストラグルしているっていうのを実感を伴って生活していた。

 

 

 

つづく・・・ 

 

2006年6月24日 (土)

人体実験体験記 -Vol.9-

   

 第一回の監禁検査の後、二週間のインターバルが置かれて、そのインターバルの後、ほぼ同様の三日間の監禁検査にもう一度臨まなくてはならない。

インタール中は二、三日に一度くらいの割合で通院し簡易なチェックを受けなければならないのだが、これが早朝七時とかのモーニング・チェックになるので、さすがに面倒である。一応、毎回送迎が付いていて、ドライバーの車に乗っての通院となるのだが、簡易チェックはBEVERLY HILLSの方の病院になるので通勤のトラフィックに巻き込まれ、朝の貴重な時間が台無しになる。大体、朝六時半に迎えに来られるなんざ、いい迷惑だよ!

 モーニング・チェックの内容を簡単に説明しておくと、まず採血と心電図、血圧の検査が監禁検査中と同様に行われ、その後、朝食をあてがわれる。メニューは決まっていつも同じ。トーストコーン・フレークコーヒー、それにミルク。まああのクソ不味かった病院食よりは余程食える。食後、少し時間を空けてから薬を飲まされる。それで終了。送迎の車に乗って家に帰る頃には大体午前の九時半を回った時刻である。

 これが二度目の監禁検査までの間の二週間と、監禁検査後の二週間行われる。

 とまあ、これまでの監禁生活の実態をつぶさに記してきたくだりと比べると、あまりにもあっさりとした文でそのインターバルの説明を済ましてしまったが、その補填として、その間の僕を取り巻く日常生活を、当時綴った日記から抜粋して書き足しておこうと思う。

4月7日(月)

 昨夜飲んだウォッカがもたらした膀胱熱は、半日後の夕刻には跡形もなく失せているが、しかし未だにアノ恐怖は引き摺ったままでいる。しばらくは酒は飲まないと改めて自身に誓った。

 何人かの友人たちに連絡を返したのだが、皆、僕の体験に興味津々のようだ。

48日(火)

 インターバル中第一回目のモーニング・チェックを受けに行く。朝も早くに迎えにこられ、朝日の照り輝く中、行き着く先がBEVERLY HILLSのクリニックなのだから、その爽やかな気分も台無しである。しかも、ガッチガチにトラフィックに掴まって、貴重な時間がドンドンと潰されていくのだ。早起きして気分が滅入るなんてヒドイ話だ。

モーニング・チェックは、監禁生活の一部を縮小したようなもので、採血と体温、血圧を測定し、心電図をとり、食事を与えられ、そのキッカリ三十分後に投薬される。監禁中にも飲んだ濃い茶色のカプセル状の薬を飲まされるのだ。薬を飲んだ後、そのカプセルを口内に残していないか入念にチェックされるってのが何だか腹立たしい。

帰宅後、学校に遅れていく。今日から新しいタームが始まるのだが、手元に金がないので新しい教科書を持たないまま授業を受けた。

49日(水)

 CALIFORNIAにうってつけの晴天。ホーム・ステイ先の家主のCARL(無職の中年白人男性)のたっての頼みで、家賃の前払いを求められた。別に断ってもいいのだが、この依頼に応えると、再来月分の家賃を半額(月額四百ドルを二百ドル)にしてくれるというので、その話に思わず魅かれてしまった。

 CARLの事情としては、持ち家に対しての税金の支払いにどうしても僕の助けが必要だったということらしい。この持ち家に掛かる税金は、毎年、この時期に支払うことが判っていながら、グウタラな家主は仕事もせず、家賃収入だけを当てにしてのんべんだらりと独身生活を送っているのである。働けとは言わないが、せめて税金分くらいは貯蓄しとけよな!(僕の住むこの家には、僕の他にも二人の邦人男性がホーム・ステイしている。僕たちはCARLも含め、ほとんど顔を合わすことなくそれぞれの生活を過ごしているのだが。)とにかく、その税金の支払いの期日は差し迫っているということだった。

昼前にクリニックに電話を掛け、とりあえず第一回目の監禁検査分のバイト代を日割りして前払いしてもらえるよう交渉した。この交渉にはかなり手を焼いたが、昼過ぎになって病院からの折り返しの電話でようやく何とか要求を認めさせた。しかし、よくもまあこんな交渉ができたものだと我ながら呆れる程だった。切羽詰った人間は行動が大胆になる。何にしたって、家賃半額で浮く二百ドルという利益は僕にとって大きい。

そのままCARLを一緒に連れてBEVERLY HILLSへ車を駆る。同じく切羽詰ったCARLはなけなしの金でガソリン代を出してくれた。まあ、当然といえば当然の話なのだが。

病院でチェック(小切手)を受け取ると、それを現金化すべく急いで銀行へ向かった。

普通、受け取ったチェックは自分の口座を持つ銀行に持って行き、その口座に振り込んで利用するのだが、その場合、そのチェックの額を現金化するには数日の期間を要するらしい。チェックを当日中に現金化する為には、そのチェックを発行している特定の銀行の窓口へ行かないといけないのだった。

銀行の閉店時間が迫っていて、それこそ一分一秒を争うような状況になった。窓口に滑り込んだのは閉店時間の二分前で、銀行自体、もう鍵を掛けてしまっていたところだった。車中からその銀行に前もって電話を掛けていたので、何とか都合を付けて扉を開けてもらい、現金化の事務を行なってもらったのだが、まるで何かの映画かゲームを実体験しているかのような感覚に捉われていた。

その帰り、数多の困難をクリアーして、時間ギリギリのところで現金を獲得できたことに気を良くしてか、CARLはフリーウェイを使わず、ゆっくりドライブでもしながら帰ろうと言う。別に僕としても大した用事もないので、下道を使ってのんびり帰路についた。6th ST.を東へ流し、南CALIFORNIA独特の強い陽射しを浴びてL.A.郊外の美しい街並みが浮かび上がるのを眺めやる。緑豊かな並木と豪奢な家屋の並ぶ通りを抜け、やがてハングルの看板の目立つKOREAN TOWNからDOWN TOWN中枢へと入っていく。

そこでCARLが何をトチ狂ったのか、LITTLE TOKYOにあるバーに寄ろうと言い出した。税金の支払いに目処がついたことで気が大きくなったらしい。酒を奢ってくれるというので、文句もなくバーに入ることにした。

その店はバーというより、ブリュワリー系のレストランに近いカンジの店で、アメリカでは珍しく生ビールを飲ませてくれる。しかも、一杯が二ドルとかなり安い。料理に関しても、メニューがたくさんあり、それぞれ量もタップリあって、これまた安いとくる。味も悪くない。イカのフライ生春巻きスパイシーなソースの掛かったフライドチキンを食べたのだが、それぞれビールによくあったつまみだった。生ビールをもう一杯飲んだ。アルコールはしばらく絶とう、とか言ってた舌の根も乾かぬ内のこの始末である。

ちなみに、先に挙げたメニューの他にもたくさんのメニューが並んでいたのだが、それらは全て二ドルから三ドルという超安価な値段だった。これは実はタイム・サービスの値段だということで、平日午後の三時から七時までがその時間に中るということらしい。これはなかなかデートに使えるゾ!・・・但し、相手がいればの話だが。。。とにかく、カワイコちゃんを誘って、またこの店に来よう。

ところで、おバカなCARLは手元に入った金で早速無駄遣いをやらかして、こんなだから毎年税金の支払いに紛糾することになるのだ。働きもしないくせに。今からでも来年の分、ちゃんと貯めとけよな!まあ、僕は素直に奢られておくけど。

というワケで、とりあえず僕の手元にもいくらか現金が入ってくることになった。前払いしてもらったチェックの金額は八百ドル。そこからCARLに来月分の家賃四百ドルと、再来月分の家賃二百ドルを合わせて前払いしてやったから、手元には二百ドル残った。僕はCARLみたくバカな使い方をしないように、改めて自身を戒めた。

 

 

つづく・・・ 

2006年6月21日 (水)

人体実験体験記 -Vol.8-

   

 三日間の監禁生活を解かれ家に帰った僕がまず、いの一番に取り掛かったこと、それは酒を飲むことだった。医師からは、この後も続く臨床実験に際して、なるべくアルコールを控えるよう僕に警告していたのだったが、ダメと言われるとそこは人情で、余計に酒が飲みたくなったのである。

帰宅するやいなや、荷をベッドの上に放り出して、近所のモールに出かけた。病院での夕食をほとんど残していたので、腹持ちのするつまみを買いに出かけたのだ。モールはウチから歩いて二、三分のところにあるのだが、買い物をするのであえて車を出す。モール内にある¢99ショップに入って二リットルのコークを一本と、唐辛子のピクルスを一瓶買い、道路を挟んだところにあるハンバーガー・ショップのCARL’S JR.スパイシー・チキンという1ドルのサンドウィッチを二つ買って家に戻る。

部屋に戻って改めて荷を解き、留守電などのチェックをしていると日本にいる親からメッセージが残されていた。「また電話する」とだけ残されていたのだが、その声を聞いて、よその国で、ワケもわからんような新薬の人体実験のモニターなんぞになってまでしないと生活もままならないような今の自分の有様を、とてもじゃないが親には言えないなと思い、このことは絶対に家族には漏らすまいと心に誓った。

そういえば誰だったか、僕がこの人体実験のサンプルとして参加することが決定した後、しみじみと言われたことがある。

「君がこれから行なうような、自分の体の健康を省みない行為は、非常に親不孝だ。それは言わば、自身の身体に自ら傷を掘り込むようなもので、ピアスの穴を開けるよりも、刺青を彫るよりも、もっとダメージは深く、心の負担は大きいだろう。両親が知ったら悲しむだろうな・・・」

その言葉を聞いた時点では、親不孝をどうこう考えるような落ち着いた状況ではなかった。まさに“尻に火が点いた”状況だった僕は、後先を考える余裕もなく、この実験に飛び込んだのだったが、こうやって一度目の監禁生活を終え、親からの留守電を聞いた後では、誰からだったかの先の言葉がやけに重く胸に響いた。

まあしかし、だからといって、僕の“尻に火が点いた”状況は以前と何も変わらないのだけど。。。

時間はまだ夜の八時過ぎだった。酔っ払ってしまう前にとりあえず日本の実家に電話を掛ける。冬時間なので、日本では昼の一時過ぎになる。自営業をしている両親はこの時間でも在宅しているハズだった。

約三ヶ月ぶりに電話することになったのだが、留守電に残されていた親のメッセージというのも大して用事があったワケではなく、その三ヶ月くらいの間の連絡の滞りを気にして電話してきたということであった。軽い言葉を交わして電話を切ったのだが、妙に辛気臭い罪悪感みたいな感情が、その電話の間中、僕の心にまとわりついた。

そういうのもあって、その夜は結構な量のアルコールを飲むことになった。

僕は当時、ニリットル・ボトルのウォッを愛飲していたのだが、それは別に僕がウォッカが好きだったからではなくて、唯単に、ウォッカがアメリカで一番安く手に入れられる酒だったからである。僕がいつも買い置きしていたのは一瓶十ドルの安ウォッカだった。本当は医療薬品臭い匂いのするウォッカなんかより、ウィスキーの方が好ましい。だが、アメリカではこの二リットル、十ドルの安ウォッカより安価なウィスキーはなかった。もしかすると、もっと安いウィスキーがあるのかもしれないが、それは僕が通うリカー・ショップでは見当たらなかったし、大抵の酒量量販店で探してみても、このニリットル、十ドルという量と価格に敵う安酒は他になかった。

 ちなみに、アメリカのビールの安さにについては日本でも有名だが、確かに安くはある。特に大衆向けに販売されているBUDWEISERMILLERCOORSの三社が販売するライト・ビールはかなり安価な値で売られている。日本でいう350ミリ・リットル缶の24本パックが、確か十ドルくらいで買えたのだから、一本、42セントは日本円で50円くらいになる。その代わりと言っちゃ何だが、ライト・ビールなので、日本のビールのような味わいやコクはないし、ほとんど水のように飲めてしまうのがなんだか味気ない。前に挙げた三社はあくまで大衆向きのビールで、ハイ・ソサエティーを象徴するステイタスとしては、これらのビールはあまり飲まれない。彼らは好んでインポート・ビールスーパー・プレミアムのビールを飲むそうだ。日本のキリンアサヒサッポロの銘柄はそういう社会では結構好まれているらしいが、まあしかし、僕には関係のない話である。僕はアメリカで日本の銘柄のビールは飲んだことはないのだから。

アメリカではこれだけビールが安く購入できるというのだが、しかしぼくはあえてウォッカを選ん愛飲した。それは、個人的な話にはなるが、ビール程度では僕自身上手く酔えないし、満足できないからというのもある。それに、それらを加味して考えても、やはりウォッカの方が安価であるのだった。まあ、その功罪として、安酒の二日酔い程にヒドイ罰はないのだけれど。。。

冷蔵庫の氷をロック・グラス一杯にブチ込んで、そこに安ウォッカをダブルで注ぎ、更にコークを注ぎ足して割る。こちら側の友人たちとの連絡は明日に回して、今夜はとりあえず酔っ払ってやろう。

グラスを何杯分も空にしては、新しく満たす。スパイシー・チキンを平らげ、グラスを傾けて口内を濯ぐように飲み干す。テレビはMTV JAMで、有態のP.V.を垂れ流しているのをぼんやり見ていた。時間の流れがヒドく緩慢に感じられる。

氷を継ぎ足し、更にグラスを傾けていく。唐辛子のピクルスを食みながら、深夜の十二時頃まで飲んでいた。そのまま泥の中に沈み込むように眠った。

夜明け前、尿意を催し、ふと目を覚ました。

トイレに入って用を足したが、なんだかおかしい。何がおかしい?どうも体調がおかしい。体調がおかしいといって、いつもの二日酔いとは様子が違う。先程、用を足したばかりなのに、膀胱の辺りが内部で妙に熱を持っていて、それが激しい。痛みを感じるというのではないけれど、膀胱が内側から腫れ上がったような感覚があって、それってもしかして薬の副作用なのだろうか?と心配に駆られた。糖尿病に関する新薬なのだから、それがアルコールに反応するってのは、当然ありうる話である。

そうこうしていると、膀胱内の違和感は更に加速度を増して熱を帯びていく。ひょっとして、コレはヤバイのではなかろうか?そういった思いが頭を掠めたが、今更、後の祭りである。打つ手はない。

正確に膀胱とは言及できないのだが、圧迫感が加わったこの尿意の延長にある体調の異変は、十二分に僕を戒めた。痛いというのではないが、とにかく理解不能の恐怖感が夜明け前の僕を打ちのめしていく。

僕は信心もないくせに、釈迦如来だか、キリストだか、マホメットだか、とにかく神様に祈った。

“もう二度とあんな酒の飲み方はしませんので、どうか健康な身体に戻してください!”

 まあ、祈ったところで回復するでもないので、そのままベッドに戻って眠ることにした。それにしてもあの膀胱熱の恐怖は、結局何ももたらさなかったのだが、今考えてみても恐ろしい。

 あるいはもしかすると、何らかの影響を今現在の僕の身体にも及ぼしているのかもしれないが。。。

 

 

 

 

 

つづく…

 

 

2006年6月17日 (土)

人体実験体験記 -Vol.7-

   

 監禁生活三日目。今日は世間で言う日曜日だった。二泊三日の監禁生活、その第一回目の最終日になる。

多分、寝ている間に何度か採血されたかもしれない。僕がきちんと目を覚ましたのは朝の八時頃だったが、六時頃から周囲が少し騒がしかったような気がするので、定例の採血や液体注入はされていても不思議ではなかった。

八時に行なわれた採血や心電図、脈拍のチェックでとりあえず第一回目の監禁実験の実質的なプログラムは終了した。丸一日僕の右腕に刺しっぱなしだった注射針もようやく外してよろしいということになった。コイツを利き腕に刺したままでの生活のなんと不便だったことか!肘を屈伸させ、束縛を解かれた右腕の自由をしばし噛み締める。この監禁生活の間、腕を曲げられず、不自然な格好で文字を綴っていたのだが、それが一番の苦痛だった。第二回の監禁生活を送る際は注射は絶対左腕にしてもらおう!と心にひそかに誓う程であった。

それにしても、第一回目の実質的なプログラムがこの時点で終わったというのだから、もうこのまま帰宅させてくれてもよさそうなものを、監禁は夕方まで継続されるという。開放されるのは夕食をあてがわれた後で、大体七時頃になるらしい。その間、せっかくの日曜の時間が唯々無為の内に流れていくのを待っているしかないのである。

朝食はトーストベーコンコーンフレーク牛乳ホットチョコレートアップル・ジュース、それに蜂蜜が付いていた。これまで食べた中で一番まともに思えるものだった。毎日三食このメニューを続けてもらっても構わないくらいだ。

朝食後は、もう採血などで一時間おきに起こされることもないので、僕としては深い微睡みの中でゆったりとたゆたっているのが心地よかった。おまけに右腕も自由に曲げ伸ばしできるし。

目覚めて眺めやる窓の外の景色は、L.A.独特の間延びしたような気だるい週末の昼時の色合いを帯びて、まるで切り取られた絵画の一部のように見えた。

そうこうしているうちに昼食の時間がやってきた。しかし、大して腹も減ってなかったし、寝ぼけた状態だったので、ほとんど口にしなかった。まあそれに、書き加える必要も今更ないとは思うが、ひどく不味そうなメニューだったってのもあった。何が出されたかってのは、寝ぼけていてあまり覚えていない。しかし、これまで書いて散々罵倒してきた程度のメニューと代わり映えしないようなモノが並んでいたことだけは確かである。

夕日は三度同じ順序を辿り、街を夕暮れに染め上げていく。僕は午後の時間のそのほとんどを本を読んで過ごした。SNOOP『PAID THA COST TO BE THA BP$$』からTHE ROOTS『PHRENOLOGY』NAS『THE LOST TAPES』へとBGMを次々に変えながら、ドナルド・トランプの自伝『トランプ自伝』を読み終え、ミングウェイ『日はまた昇る』をまた読み返した。

たまに病室の外を出歩いてもみた。ナース・ステーションにて待機している数人の看護婦や医師たちの背中は、初日のそれと違ってリラックスした雰囲気に満ち溢れていた。まあ別に、彼らは丸三日間、僕たちと同じように病院に監禁されていたのではなく、言うまでもないことだが、交代制で就業しているのだから、元々そんな緊張感といったものはハナからなかったのかもしれないが。。。初日、彼らの背中や顔の表情、語り口に緊張の影を見て取っていたのは、あるいはそれは彼らの緊張の影なのではなくて、僕自身の抱える影をそのまま彼らの中に投影していただけだったのかもしれない。

出歩いたついでに給仕室に寄り、ポップコーンスプライトをもらって自室に帰った。どうせあてがわれる夕食に期待するだけムダって話で、昼食もほとんど口にしなかった僕にとってこのポップコーンとスプライトは、空腹を満たす為に必要不可欠な食料だった。

ちなみに夕食は昨日と同じ冷えたハンバーガーと同じく冷えたビーフシチューもどきがメインだった。感想は・・・もうあえて書かなくてもわかっていただけるであろう。ポップコーンスプライト万歳!

ほとんど手のつけられていない夕食のトレーが下げられ、キャブ(タクシー)が来るまでの間、三十分程待機させられる。その間に持ち込んだ荷物を整えておく。

そういえば書くのを忘れていたが、監禁初日、病院に到着してすぐ、持ち込んだ荷物の一々について、盗難防止の為に用紙に記載しておいたのだった。貴重品はもちろん、衣服や書物、今回の僕の場合ではCD一枚一枚についてまで申告しておかなければならなかった。それを帰宅時、その書類をチェックして何もなくなっていないと確認しなければならない。

ここに来た時、大して荷物を持ってこなかったのだから、帰りも同じである。クローゼットからTシャツなどを取り出し、机の上に広げてあった筆記用具やノート、本やCDと一緒にまとめてバッグに放り込む。そしてラジカセを携えれば準備完了だ。

 

 夜闇がL.A.の街の上に薄く垂れ込めかけた頃、ようやく監禁を解かれ、僕はまとめた荷を持って病室を後にした。

 

 

 

 

 

つづく…

 

 

2006年6月16日 (金)

人体実験体験記 -Vol.6-

   

何度も転寝をして、その度ごとに採血となにやらの液体注入で起こされる。前にも書いたが、この液体注入が毎回睡魔を誘発するのだ。あるいはそれはその謎の液体の影響ではないのかもしれないが。僕はその時、ヘミングウェイ『日はまた昇る』を読んでいたのだが、数ページ分読んでいる間にどうしても眠たくなってしまう。この睡魔に抗うことなく、陽だまりの中のように居心地のいい転寝の最中にすぐに潜り込む。。。しかし、結局それも一時間も経たない後に破られるのだけど。おかげで『日はまた昇る』は一向に話が進まなかった。

そうこうしていると昼飯時になる。昼食には、サンドウィッチサラダフルーツロールパン、それにスプライトが出された。朝食と同じで、まあ食えなくはない。美味い、不味い以前のレベルの食事だ。しかし、厳密に言えば、ハム、レタス、トマトが挟んであったサンドウィッチはまあ良いとして、一片の胡瓜しか入っていないサラダや、半分にカットされた苺がこれまた一片しか入ってないフルーツの盛り合わせは、まるでこの国の中低所得者の食事情を見事に反映しているように思えた。

フルーツに関して言えば、カット・メロンなども入っていたのだが、とにかくイチゴも含め、とにかく風味に乏しい。それは今回対面したこれらの病院食に限らず、レストランやスーパーで売られているほとんどの果実に言えることなのだが、日本に輸入されている果実は別として、例えば両国の苺やメロンなどを比べてみると、その甘み、そして香り高さが明らかに違う。味覚に疎い僕がこんな事を言い出す程なのだから、平均的日本人のなんと舌の肥えたことか!全世界の人々に“とよのか”“夕張メロン”を食べさせてあげたい程である。。。

昼食を挟み、更に採血と液の注入を繰り返された。レム睡眠と覚醒を繰り返し、気付くと午後の五時過ぎになっていた。窓の外はすでに太陽が大きく傾き、西に向いた窓から乾いた色合いの斜陽がベッド上の僕に降り注いでいた。

寝起きのぼんやりした気分で窓の外の景色を暫く眺め、それから机に向かって日記を付けた。と言っても、この日のほとんどは眠っていたか、あるいは睡魔にぼんやりしていたかだけだったので、特に書くべきことはなかったのだけど。。。

夕食前にスナックを出されたので、暮れゆくL.A.郊外の街の景観を眺めながらそれを食べた。ケロッグライス・クランチ牛乳、それに小袋のドリトスだった。メチャクチャな組み合わせだ。病院で出されるのにポップコーンもヒドイと思ったが、ドリトスは更に輪をかけてヒドイ。しかし、僕は嫌いではないので、几帳面にきちんとそれらを平らげるのだが。

とりあえずこれでこの日初めて意識がハッキリ覚醒した。さすがにこれだけ寝ればもう体の中には一ミリ、一グラムの睡魔もなくなってしまったような気がした。その覚醒した意識で窓の外の景色を眺めると、その景観の輪郭が夕陽に映えて、やけにクッキリと浮かび上がって見える。僕はその景色と今回の“新薬の人体実験”の体験をリンクさせるように、意識の層の奥深くにまで焼き付けるように眺めていた。だからだろう、あれから数年経った今もその景観をやけにハッキリと目の前に思い浮かべることが出来るのは。

夕暮れは昨日と同じ順序を辿って夜の帳に取って代わられた。昨夜よりも若干厚みを増した三日月が上空に掛かっていた。HOLLYWOODの街のネオンは相変わらず週末の夜を華やかに彩っているし、101Fwyはバッド・トラフィックで賑わっている。

夜七時頃に出された夕食はとてもじゃないがまともに食えない程、ヒドイ内容だった。ンバーガーピラフ温野菜フライドチキンパンケーキ、それからロールパンチーズフルーツ・コンポート、そしてコーヒーというメニュー。こう書き連ねると、まあ悪くないように見える。どう失敗してもそれ程不味くはならないようなものを選んでオーダーしたつもりでいた。前にも書いたが、確かにこれらは僕が各種コースに用意されたメニューの中から選んだものになるのだが、前夜の教訓から、僕も比較的に当たり外れのないものを選んだつもりでいたのだった。これが見事に外されるのだから、心底、食事に関しては憂鬱にさせられる。

例えば、ハンバーガーは冷え冷えのもので、中のハンバーグの表面には脂分が白濁色に凝固したものが浮き出ているし、口に含むと、その牛脂の生臭い匂いだけが鼻から抜けていく。フライドチキンも当然冷え冷え状態で出されていて、口に含むと、その安っぽい脂分がイヤなカンジでいつまでも口内に残った。ピラフ温野菜は前夜にも出ていたので、一切手をつけなかったが、フライドチキンの上に添えられていたパンケーキを食べてみると、前述したフライドチキンの安っぽい油脂が染み付いた味しかしない。チーズは、一体何を主張したいのか、その意図が感じられない、究極的に言って存在意義のない代物だったし、コーヒーなんて風味も香りもヘッタクレもない、まるで泥水を飲んだような味しかしなかった。。。

 ここまで書いていて、なんだか僕は新薬開発の人体実験に関してより、入院中の食事とそれに対する不満ばかり書いていることに気付いた。今後は、せめてその不満だけでも減らしていくように努めよう。

 夜、最後の採血と液注入を終えると、僕は夜景を見ながら遅くまで本を読み、ポップコーンスプライトで空腹を満たし、日記を書いて、眠りに就いた。気付くといつも採血と液体の注入を強いられ、食事を与えられていた。何だか時間軸を抜き取られてしまったかのような、妙な一日であった。これが実質的な新薬研究に携わった一日である。

 

 

つづく・・・

 

2006年6月11日 (日)

人体実験体験記 -Vol.5-

   

 朝六時に起こされた。そしてまだ目が覚めてない、状況も飲みこめていない所に注射を刺された。これはちょっとした恐怖だ。それにしても、注射が目覚ましとはひどい!

しかも最悪なことには、看護婦がその注射を失敗しやがった。更に追い討ちを欠けるように、二度注射して、二度とも失敗しやがった。僕の腕は元々血管の見えにくい腕らしく、これまでも採血などの注射でよく失敗されていた。一度目はセオリー通り、左の関節に近い前腕部に行なった。刺した針を筋肉の中で動かし、血管を探り当てようと試みる。これがまた痛い!僕は歳甲斐もなく歯を食いしばってその痛みをこらえる。結局、血管を探り当てることが叶わなかったらしく、続けざまに、今度は左腕の手首に射しやがった。手首だから血管が浮かんで見えているので、到底失敗などしそうにないように思えるものを、これまた失敗しやがった。一体どんな教育受けてんだよ?!この手首への注射は、前回のそれを上回るすさまじい苦痛を伴った。どうしても血管に辿り着けない針先を、その看護婦は僕の肉体内で動かし続け、仕舞いには骨にガリガリと擦り付けてくるのだ。これはあまりにもヒドい仕打ちである。しかも僕はまだスッカリ目覚めてさえもいない寝起き直後だというのに!そしてその結果が失敗とくるのだから、あきれてしまうよ。。。

看護婦はどうしても僕の血管を探り当てられないことに不思議に思ったのか、首をかしげながら部屋を出て行った。ヘタクソ!

一時間後、違う看護婦が来て、もう一度注射を試した。今度も左腕の関節に近い前腕部分で試した。しかし、またまた失敗して、次に右腕の同じ部分で試し、そこでようやく僕の血管を捉えるに至った。ようやく成功したことで僕も少しホっとしたくらいだったが、しかし利き腕にされたのは致命的であった。

 実は、この注射は普通の金属製の注射針ではなく、針の部分がプラスチックで出来ていて、針を刺したままでも多少なら腕を曲げ伸ばしできるという。つまり、点滴などの長時間刺しっぱなし可能な注射針である。つまり僕はその日一日腕に注射針を刺したまま、生活しなければならなかった。これは結構な苦痛であった。しかも利き腕に刺されたものだから、何かと不便でもある。何より痛い。まあしかし、この日繰り返される予定である十二回分の採血やら何やらを考えれば、その回数分だけ一々注射されることを思うと、まだマシ、、、なのだろうか?どちらにしても、僕の腕の皮膚や筋肉の細胞が確実にダメージを受けるだろう事は想像に難くない。

 注射を刺され、そこから血を抜かれ、ワケのわからん透明の液体を注入された。ひんやりとした感触が血管を遡っていくのは、何とも心地が悪い。しかもこの液体を五本分も注入されたのだ。これはさすがにたまらん!朝一から僕はドン引きだった。

この液体が何だったのかは結局わからず終いであった。多分薬物ではないと思うが、注入後、異常に眠たかったのを思えば、あるいは薬物だったかもしれない。もしくはブドウ糖であるとか。。。医師や看護婦に聞けばそれなりに答えてくれるのだろうが、どうせ専門用語を英語で聞いても理解できないに違いなく、またそれを知ったところで、得体の知れない未知への恐怖心が増幅するに決まっている。願わくば、この液体が“頭の良くなる薬”か、もしくは“ハンサムになって女の子にモテモテになる薬”でありますよーに!と祈りながら、とりあえず僕は知らないフリを決め込むことにした。(これを書いている現時点で、頭の回転も改良されたわけでもなく、全然モテない生活を送っていることから、その液体にはそういった効力はなかったらしい。。。)

 朝の採血チェックと一緒に心電図と血圧の計測も行われた。その後、朝食を採り、それからカプセル状の薬剤を一錠飲む。

朝食はトースト、ケロッグのコーンフレーク牛乳紅茶を出された。さすがに美味い、不味いをとやかく言うレベルのモノではないので、普通に全部平らげた。

食後の薬、これが今回開発中の糖尿病用の新薬になる。形状は長さ約十ミリ、直径約三ミリくらいの濃い茶色のカプセル状で、中には当然ながら白い粉末の薬が入っている。飲み込んでみるが、味はさすがにない。即効性の効力があるかどうか、それはわからないが、即効性の副作用はまず見当たらなかった。さすがに重要な研究ということもあって、カプセルを口に含み、水と一緒に飲みこんだ後、看護婦が僕の口内に残ってないかどうか確かめる為、厳しくチェックされた。

 

 その後、僕は転寝を繰り返しては一時間おきに起こされ、採血と液体注入を繰り返された。先程も書いたが、液を注入された後、すごく眠くなるのだ。一体、どれくらい僕の血が抜かれたのか定かではない。そして、あのわけの分からん透明色の液もどれくらい注入されたのであろう?あの液はこんなに摂取して体に害はないのだろうか?多少不安に思いながらも、乗ってしまった船についてどうこう言うのも野暮な話だし、そのまま病院に居座り続けた。

 

 

つづく…

 

 

2006年6月 9日 (金)

人体実験体験記 -Vol.4-

   

絶望的に不味い病院食による晩餐を終え、この日はもう特にすることもない。僕はラジカセの音量を上げて、部屋中をグルーヴで満たした。それから一時間程、集中して本を読み、気分転換にペンを手に取った。日記として出来るだけ詳細にこの監禁生活の状況を綴る為であった。この日記を基にして、いつか外向けのレポートを作成しようと考えていたのである。食事までの件を書いてしまうと、次にパッドを取り出して手紙を書いた。その前の週の週末に行ったメキシコ旅行での事件などを日本にいる家族や友人達に知らせたかったのだ。

数人分の手紙を書き終わる頃にはそろそろ夕陽も西の彼方に沈んでしまっていた。夕陽の最後の一滴に至るまでオレンジ色の斜光を浴び続けていたBIVERLY HILLSのビル群の背面は、いわくありげな影を背負っているように見えた。病院のすぐ傍を走る101Fwyは、DOWNTOWN方面へ向かう車線も、あるいはその反対の郊外へ向かう車線も、どちらもたくさんの車が列をなし、ヘッドライトやテールランプの波で溢れかえっていた。上空は、オレンジ色の名残にとって替わるようにして、乾いた青色から濃紺へ至るまで西から東へとグラデーションを見せ、海岸側から内陸に向かって流れていく千切れ雲は紫色に染まって見えた。

しばらくして、看護婦の一人がお腹が空いたか?と聞いてきた。僕はテレビでぼんやりとNBAレイカーズグリズリーズの試合を見ているところだった。僕が夕食に半分くらいしか手を付けていなかったことを気にしてもらったのだろうか?腹が減った、と答えるとポップコーンを作って持ってきてくれた。それに350ml缶のスプライトも付けて。僕は我が目を疑った。ポップコーンスプライト!入院患者に対して、それってアリなのだろうか?確かに、厳密に言えば僕は入院患者ではなく、体そのものは健康体なので、厳しい塩分、糖分、カロリーの規制をかける必要はないのだろうケド、それにしたってモニター環境を整えるってのにポップコーンスプライトは悪影響を及ぼさないのだろうか?そのポップコーンはレンジを使って簡易に作れるような代物で、バターがタップリとかかっており、塩味も強い。スプライトだって、いくらカロリー・ハーフとはいえ、医学的に絶対に推奨されるような飲み物ではないハズだ。こんな不健全的とも呼べるようなモノをためらいもなく差し出してくるなんて、僕としては逆に警戒してしまう。。。とはいうものの、結局どちらも美味しく平らげてしまうのだが。

結論からいえば、この監禁生活三日間の内にあてがわれた食事は、そのほとんどどれもがヒドく不味いものばかりで、気が滅入らされた。そのヒドく不味いというのを抜きにしても、これらが病院食として出されるということに対して怪訝に思えるほど、メニューは退廃的であった。ハンバーガーなどのジャンク・フードを出された時にはさすがに呆れ返ってしまった。日本の病院では、病院食にハンバーガーは大よそ考えられないだろう。そして、ポップコーンスプライトとくる。病院食のメニュー自体、素人目に見てもそれほどカロリー・コントロールされているようには見えなかったのだが、実際それとは別に菓子やジュースも食い放題だったし、何が制限されてるのか、意味がわからなかったくらいであった。大体、糖尿病のための新薬開発用モニターに対して、塩気とバターがタップリのポップコーンや炭酸飲料のスプライトを出しても良いものであろうか?アメリカはこれだから、さっぱりわからん。。。

まあ正味の話、僕は二度に渡る三日間の監禁生活を通して、不味かった食事にはあまり手を付けず、このポップコーンスプライトが生命線となるのであった。僕は昼食後と夕食後、一日二回、ポップコーンスプライトを貰い受けるべく、先程の探検でその所在の明らかとなった給仕室へ頻繁に出かけることになる。給仕室に行って看護婦に要求すると、ポップコーンの袋を手渡される。それをレンジに放り込んで自分で作って自室に持ち帰り、それを食事代わりに食うようになるのだった。。。ホント、これでよかったんですか、先生?

 この日は深夜の十二時まで起きていた。バスケットの試合はKOBEの劇的なブザー・ビーターでレイカーズが逆転勝利した。ポップコーンスプライトは確かに美味かったが、こんなものを新薬開発の被験者に与えてよいのだろうかと未だに疑問に思いながら、それを日記に綴った。それからディケンズ『クリスマス・キャロル』を読んでしまった。ディケンズの小説はどの作品ををとってみても、描写が繊細で、しかも独特のユーモアに溢れていて好ましい『クリスマス・キャロル』も彼の他のどの小説にも劣らず素晴らしい作品だった。

 眠る前に窓の外の景色を見やった。僕は更けゆく週末の夜のHOLLY WOODの街並みを遠くに眺めながら、そこで飛び交わされているであろう人々の喧騒を思った。ライト・アップされた街並みや、ひっきりなしに走り交う101Fwy上の車のテールランプの波がやけに羨ましく思えたりもした。

 ベッドに潜り込むと、ラジカセをPOWER 106 FMにチューニングし、音量を落として流した。ディケンズの小説は素晴らしいと改めて思い、今年のX’MAS『クリスマス・キャロル』を親しい人へプレゼントに贈ろう、と考えながら眠りについた。

 

 

 

つづく…

 

 

2006年6月 8日 (木)

人体実験体験記 -Vol.3-

   

L.A.の夕空は美しく棚引く。スモッグに霞んだオレンジ色が街全体を包み込む。そんな中で、旅客機がまるで誰かに別れを告げるようにして上空を飛び交い、やがて遥か彼方へと消えていくのを遠くに見やる。レイド・バックするには最高の景観だ。何せ、ここはL.A.G-FUNK発祥の街だぜ。SOUTH CENTRAL CARTEL御膝元の地だぜ。

 病室にチェック・インし、担当医師から説明を受けると、あとは食事だけで、とりあえず今日することはそれ以外特にない。なので、今夜はゆっくり休んでくれということだった。ゆっくり休めといわれても、、、ねえ?ということで、僕は食事までの時間をこの病棟の探険に費やすことにした。しかしながら、医師からの説明の中で、この階から出てはならないと忠告されていたので、この探検による大した発見はなかったと前もって言っておこう。

 この病棟の七階の間取りは大体こんなカンジである。まず僕の滞在する病室はこのビルの西側に面していて、先ほど書いたようなL.A.の夕暮れ模様に染まった街並が一望できる。これと同じような病室が僕の病室を挟んで、このビルの西側に六部屋ほど並んでいる。病室を出て対面にナース・ステーションがあり、その中では三、四人の看護婦がそれぞれ仕事に就いている。

 

 ここで探検から少し話が逸れるが、今回、僕が目にしたアメリカのナースについて、僅かにだが言及しておこう。結論から言えば、日本におけるナースに対する成人男子の妄想はここでは通用しない!これはまあ、あくまでこの三日間、監禁されたこの病院内で僕が身を置いた環境においてのみ限定される話ではあるが。。。三日間この病棟で僕が目にしてきたナース達はそのほとんどがタップリ肉の付いた中年層婦人で、その割合は白人系五割、メキシカン系三割、黒人系二割というものだった。別に、心ときめくような出会いを期待していたのではないけれど、少し残念ではある。ちなみに、採血を行なったBEVERLY HILLSの方のクリニックでは、さすがに場所柄か、若くてベッピンさんの白人系ナースを何人か見かけたけど。。。

 

 話を元に戻そう。ナース・ステーションの隣には給仕室があり、その反対側にはシャワー室がある。給仕室にはシンクや冷蔵庫、レンジなどが置いてあるのだが、ここが後程、僕の生命線に関わってくることになるだろうとは、この時の僕には知る由もなかった。。。給仕室側にも、シャワー室側にも、どちらも廊下を挟んで病室が二部屋ずつ並んでいる。その廊下を渡ってナース・ステーションの裏側に回りこんでみると、そこにはエレベーターが二基並んでいる。そして、そのエレベーターを挟むようにして同様に病室が二部屋ずつ並んでいるのだ。こちらはビルの東側に面しており、DOWNTOWNの景観が堪能できるようだ。

 まあ、このビルの七階の間取りは大体こんなところである。

 

 夕暮れの名残が尾を引きながら、薄い夜闇がそれに取って代わろうとしたその頃、さっそく制限付きの食事があてがわれたワケだが、これが非常に不味いながらも一応一日三食ついているのだから、まあ悪くない。悪くないどころか、毎日まともな食事に一日一回ありつくのが精々だった当時の僕の食生活からすれば、非常に恵まれた環境と呼べなくもない程である。

食事は前もってリクエスト用紙を渡され、そこでオーダーしたメニューが持ってこられることになる。リクエスト用紙には、前菜、スープ、メイン、デザートにそれぞれ二、三種類ずつのメニューがあり、そこから選ぶことになるのだが、日本の病院の入院患者にあてがわれるような病院食のイメージをそのままに想像してたから、リクエストできるってのはなんだか妙に嬉しかったりする。病院食といえば貧相で、味気なくて、いかにも不味そうな給食を有無を言わさずあてがわれる、というイメージを思い浮かべてしまうのだ。

ああ、そういえば、僕はこれまでの二十数年の人生において、未だ一度も入院体験がなかったのだった!となれば、この監禁生活が僕にとって生まれて初めての入院体験となるのである。まさかこんな形で初入院だなんて、、、なんて悲しくヤクザな話なんだ!!

自分の病室に戻って、ベッドに腰掛けて本を読んでいると、看護婦が夕食を乗せたトレーを運んできた。小さなプラスチックの容器にメインのメニューやサラダ、スープ、パンなどが入っていて、パックの牛乳やバター、ジャム、塩、胡椒なども付いている。まるで機内食そのものといったカンジだった。僕がそれぞれのコースでオーダーしたのは、前菜にボイルした温野菜ピラフスープはコンソメ・スープメインにチキンだかターキーだかのローストしたもので、それに野菜サラダ黒糖パンチーズケーキアップル・ジュースが付いて出てきた。こう書くとけっこう豪勢に聞こえるだろうが、量としては多分、日本の一般女性の胃袋サイズといったところで、味に関しては。。。所詮病院食ですよ。だが、その割にしてはチーズケーキは糖分が高すぎるのではないだろうか?

結局、このメニューの中で唯一まともに食えたのは野菜サラダだけで、それ以外、どうしようもないアメリカ人の味覚障害ぶりを露呈しているように思えてならない程であった。温野菜は茹で方が足りず、野菜に芯が残ったままだし、ピラフは味がほとんどしない。コンソメ・スープはトゲのある後味を残すし、メインのチキンだかターキーだかはパサパサで脂気も旨味も何もない。唯一まともに食えたと書いた野菜サラダでさえ、萎びたレタスが物寂しい程で、僕はドレッシングを使わず、塩コショウをしてそれを食べたのだった。しかし、僕としては野菜を食べるのは久しぶりだったので、まだそこに救いは見出されるワケだ。

こんなことを書いていると、いかにも僕が美食家然とした、味に小うるさい男に思われるかもしれないが、果たして、僕自身は美食家でもなんでもない。ややもすれば、味オンチのレッテルまで貼られそうなのが実際のところである。そんな僕がアメリカ人の食生活を指して、“味覚障害”などとぶつのだから、それは余程ヒドいということである。コイツに関していえば、この病院食に限らず、アメリカの地で遭遇した様々な場面において、僕が甚だ体感したところであった。先程、一日三食与えられるこの監禁生活はある意味恵まれた環境だといっていたが、その感想も出鼻で大きく挫かれることとなったワケだ。

とにかく僕はその食事をムリしてでも口にしようと努力したのだが、あまりの不味さに半分ほど残すことになってしまった。。。なんてヒドい話だ!

 

 

つづく・・・

  

2006年6月 6日 (火)

人体実験体験記 -Vol.2-

   

 金曜、街が週末に向けて浮かれ出す気配を肌身に感じ始める午後の時間帯。拓かれつつある未知の世界に対して、多少の不安と高まる期待を胸に抱きつつ、その日はやって来た。

 病院側の手配した送迎用の車が家まで迎えに来る。これから僕は第一回目となる、二泊三日の病院監禁による新薬の開発実験モルモットとなるべく、出掛けるのだ。お気楽な僕はハイキング気分でバッグを用意した。その中にはTシャツやハーフ・パンツ、二日分の下着に、四冊の本とノート一冊、それに便箋を入れ、その他にCDを六枚ほど詰め込んだ。そしてラジカセを抱え持った。大したことのない量の荷物だ。

 

 ちなみに、持ち込んだ四冊の本は、アーネスト・ヘミングウェイ『日はまた昇る』チャールズ・ディケンズ『クリスマス・キャロル』、それにアメリカの不動産王ドナルド・トランプの自伝『トランプ自伝』、そしてART WILLIAMS『PUSHINNG UP PEOPLE』。英語の本は最後の一冊のみ。あとの三冊はTORRANCEにあるモールの中の日系の古本屋で買った日本語訳された外国人著者(全員英語圏)による本だ。一体、アメリカくんだりまで行って、好んで邦訳された本を読んでるなんて、何やってんだか。。。

 六枚のCDは、CAMP LO『LET'S DO IT AGAIN』KRS-ONE『THE MIX TAPE』NAS『THE LOST TAPES』THE ROOTS『PHRENOLOGY』SNOOP DOGG『PAID THA COST TO BE THA BP$$』、そしてJAY-Z『THE BLUEPRINT 2』。それらは僕が米滞在中に買ったもので、その当時、唯一手元に持っていたものだった。

  

 予定時刻の少し前に電話が鳴る。送迎車のドライバーからの到着の合図としての電話だった。この電話のコトはあらかじめ聞いていた。電話を切り、荷物を背負って家を出ると、家の前のストリート上に迎えの車を探す。L.A.では余程の主要道路でないかぎりにおいては、大体のストリートの脇には車が一列になって縦列駐車されている。僕が住んでたストリートでは特にそうだった。

 FORDの黒のワンボックス車がクラクションを軽く鳴らして合図してくれた。後部座席に乗り込む。運転手は50代の無口な黒人男性だった。彼が本当に50代かどうかは知らないが、ミラー越しに見える顔に深く刻まれた皺やほとんど灰色の頭髪を見てそう想像したのだった。カーステレオから流れるラジオのJAZZ番組がいかにも物静かなその黒人ドライバーの雰囲気によく似合っていた。

 

 送迎車は僕と、もう一人モニターをピックして病院へ向かうという。今回の新薬モニター実験は計十人分のデータを採取するということらしく、監禁実験などは二人ずつモニタリングするということらしかった。車はDOWNTOWN L.A.のLITTLE TOKYOを目指すべく、フリーウェイを60-10と走り、ALAMEDAで降りてその道を北上した。101を使わず何故遠回りするのか疑問に思いはしたが、まあ別にどうでもよかった。僕はこれからまったく何をされるかわからないというスリル満点の世界へ一歩踏み出すのだ。遠回りしようが、近道しようが、そんなことはどうだっていい。

 LITTLE TOKYOの脇の方にあるシケたホテルに着くと、そこでもう一人のモニターをピックした。彼は、いかにもシケたホテル住まいがよく似合いそうな、中年の日系男子だった。車内で少し会話したが、在米歴20年になるとのことで、そのワリには現在無職だという。どうやってこれまで生活してきたというのだろう?大して言葉を交わさなかったというのもあるが、僕には彼のバック・ボーンが上手く想像できなかった。

 車はそのまま1STを西へ向け走り出し、DOWNTOWNを抜けていった。

 

 監禁検査はDOWNTOWN L.A.の西外れにある、八、九階建ての大きな病院で行われた。採血検査をしたBEVERLY HILLSの方の病院でないというのにまず驚かされ、不安感を呼び覚まされた。

 現場に到着し、見上げるそのビルは強い西陽にクッキリと浮かび上がっていた。その外観はまるで強固で無機質な要塞を思わせる。僕たちは玄関前に駐車した車から降りると、それぞれ荷物を手にしてドライバーの後に従った玄関から一階ロビーにかけて、週末の夕暮れ近くという時間帯もあってか、通院患者たちの姿は見られなかった。それどころか、医師や看護婦の姿もほとんど見られず、その様相はオフィス・ビルと見紛うばかりである。

 ロビーを抜け、エレベーターで七階に上がる。そこが今回の冒険奇譚の舞台となる場所であった。エレベーターを降りるとすぐに人が現れた。ドライバーは僕たちの身柄を彼らに引き渡すと、そのままエレベーターに乗り込んで、何も言わず帰っていった。僕はいよいよ我が身が監禁されるのだという現実をヒシヒシと肌身に感じ取っていた。エレベーターを出るまでのこの建物の非病院的な外観のイメージも一気に払拭されて、目の前には忙しそうに立ち回っている白衣の看護婦達の姿が目に飛び込んできていた。いよいよ監禁されるのだ。。。

 

 割り当てられた病室にチェック・インする。まず何より個室だったので安心した。こんな状況で相部屋なんて真っ平だからね。部屋には病院用の介護ベッドと簡易テーブルの他に、映りの悪いTV、クローゼット、それにトイレが付いていた。まあ病室の景観なんて日本でもアメリカでもさして変わらないということだ。さすがに七階だけあってそこから眺める景観はすこぶる良く、西に向いた大きな窓からHOLLY WOODの街並みからBEVERLY HILLSのアップタウンまでが一望でき、眼下には101Fwyが走っていた。三階建て以上のビルがDOWN TOWN以外にほとんど見当たらないL.Aは街並みは非常に低く平坦なので、四、五階建てのビルでさえ、頭一つ抜きに出ているように見えるのだ。

 部屋に入りゆっくり落ち着く間もなく、僕は二、三の書類にまたサインさせられた。それから荷を解き、ラジカセで音楽を聴き始める。こういう非常識的な感覚というか、まるで緊張しているのやら、寛いでいるのやら、自身でさえ理解不能な行動が我ながらクレイジーだと後々になって思うのである。多分、寛いでいたのだろうが。。。ちなみに、流していたのはCAMP LOだった。

 しばらくリラックスしていると、担当医らしき白人中年女性が現れた。自己紹介をし、この三日間続く監禁生活の簡易なスケジュールを伝えられた。プログラムによると投薬など、主な実験に関しては全て二日目に行われ、前後の一日ずつは食事制限などでモニター環境を整えるという。こう書くと何だか楽な話に聞こえるのだが、その二日目が大変で、朝六時半起床で、それから一時間置きに採血され、心電図と血圧を測られるという。採血は夜の七時半まで、計十二回。これは半端じゃなくしんどかった。いや、しんどいなんて言葉だけでは済まされない、これは一種の苦行のようなものであった。。。

 

 

 

つづく…

2006年6月 4日 (日)

人体実験体験記 -Vol.1-

祝、更新100回!!

と、いきなり自分で祝っちゃいますが、

前回記事でも書きましたように、

今回から数回分に架けて (予定回数は未定)、

100回更新記念の新企画を発動させたいと思います。

ズバリ、お送りするのは感動のノンフィクション冒険活劇、

その名も

「人体実験体験記」 

。。。。。

。。。。

。。。

まあ、つまらん読み物ですが、

暇つぶしにでも読んでやってください。

 

 

  

 「人体実験体験記」

 

   1

 

 話せば長くなるが、僕は“人体実験”を体験した。僕にとってその体験は、大袈裟に言えば、L.A.滞在期における致命的な思い出の一つになる。

  

 “人体実験”と聞いて、皆、何を思い浮かべるだろう?まるで小説か映画の中の絵空事のような話だ。例えば、旧ナチスの秘密軍務?近未来の遺伝子実験?国家機密にスパイの暗躍する裏世界?…そうじゃない。だが、その言葉に付きまとうキナ臭いイメージがどうしても払拭できない事だけは確かだ。。。

 

 それは 新薬開発に関する人体実験 だった。

 

 なんでも、糖尿病患者の血糖値を飛躍的に下げる新薬を開発するための人体実験だった(らしい)。糖尿病ってところが、いかにも胡散臭いじゃないか。確かに胡散臭いモノ好きの僕も、さすがに新薬開発の人体実験なんかには、普段なら手を出さなかった。しかしその頃僕を取り巻く状況は普通ではなかったのだ。やむを得ず手を出してしまった、というのが正直な所である。

 その頃の僕の状態を説明すると、ただ単純に“生きていく上での金がなかった”。。。冗談じゃなく、本当になかった。僕の全財産は財布と銀行口座の中にある全てを合わせても、たった20ドル(2400円)に満たない金額しかなかったのだ。生活費をギリギリに切り詰めて生活していたのだが、それでも1ヶ月に最低600ドルの生活費(家賃に400ドル、食費に50ドル、通信費用に30ドル、ガソリン代に100ドル、その他諸経費に20ドル)を必要とした。手持ちの20ドルじゃ、ガソリン代にもならない。適当な性格の僕もさすがに少し焦った。それで人体実験なんかに手を出したワケだ。

 皆さん、単純に“バイトすりゃいいじゃん!”って思われるかもしれない。だがこれがなかなか難しい状況なのだ。それはビザ上の問題も絡んでくるわけなのだ(L.A.滞在中の学生諸君はこの事情を痛切に理解してくれることであろう)。でも、手元に20ドルしかない僕は、呑気なこと言ってる場合でもなく、それで探し出したのが人体実験のアルバイトであった。これはもちろん非合法のバイトになる。

 

 決心がついたのは簡単なきっかけがあったからだった。電話で問い合わせてみると、人体実験の前に、実験に適したサンプルかどうかを調べるための血液検査があるという。その検査に際する採血に行くだけで20ドルがもらえるというのだ。

 “やった!持ち金が二倍になる。”

 それがきっかけとなった。

 

 アポイントを入れ、BEVERLY HILLSにある某クリニックに出向き、軽い気持ちで採血を行う。しかし、当人の軽い気持ちとは裏腹に、なんだかたくさんの書類を渡されサインをさせられる。たかだか採血するだけなのにである。文面に目を通していくのだが、これがかなり骨の折れる作業となる。ただでさえ完璧とは程遠い英語力の僕にとって、医療関係の英単語など分かるはずもなく、それを一々辞書で調べていくには、その書類の枚数はあまりに多すぎた。最初の5枚目あたりまでは一文一文、それこそ単語一つも疎かにしないようにして、丁寧に辞書を引いて訳していき、サインをしていった。しかし、それもすぐに集中力が切れ、なかなか減っていかない書類に対して腹立ち始めたところで、僕はキレてしまった。“えーい、知ったことか!”とばかりに、ろくに書類に目を通しもせず、全ての書類にサインを書き込んでいってしまったのだ。まったく、今考えても自分ながらに恐ろしい暴挙をやってのけたものだと、今更ながらに冷や汗を感じる程だ。まあ当人としては、ここでもらえる20ドルだけでもありがたく、まさか血液検査にパスするとは思っていなかったのだ。だからこそ出来た暴挙でもあるのだが…。

 

 しかし、幸か不幸か僕の血液はその検査基準をどうやらパスしてしまったのだった。

 勝因(?)は、多分僕自身の過労と風邪でぶっ倒れそうな体調の中での血の濁りにあったのではないかと分析している。

 

 検査前の一週間、僕はイベントで徹夜で働き詰めだった。ちなみに、このイベントは無給である。それが祟ってか、イベントの終了した翌日、僕は完全に体調を崩した。それが奇しくも検査日だったのである。

 新薬の開発の為の人体実験モニターとだけあって、きっとバリバリの健康体より、多少病んでるような肉体保持者の方が、実験モニターとして適しているのではないだろうか?と考えた僕は、この日を逃がすテはないと思い、体を引きずってまで検査に行ったのだった。

 そういう点からしても、僕もまんざらの勝算を見出していたわけだったのだが、とは言うものの、さすがにパスしたとの連絡を受けた時は、少なからず驚いてしまったのも正直なところではあった。

 

 後で聞いたところによると、この人体実験は在米する日本人を対照に行われたもので、その理由として、今回の“糖尿病患者の血糖値を飛躍的に下げる”新薬は日本の製薬会社(詳しくはわからないが、アメリカ某企業出資による日本の製薬会社になるらしい。実に怪しい話だが)がスポンサーとしてついているからだと言う。法的にも倫理的にも、そして何より技術的レベルにおいても、日本でよりこちらの方で開発した方が効率的らしいのである。。。

 ウソかホントか知らないケド。

 

 これもウソかホントか知らないケド、採血検査にパスしたのは約九十名中、たった十名だったということで、僕の血は確立十パーセントの狭き門をくぐり抜けたことになる。いやはや…、喜んでいいのか、悲しんでいいのかよくわからない話だ。

 さて、採血検査をパスした連絡を受け、数日後、また病院に向かったわけだが、その日は簡易な身体検査を行い、それからまたたくさんの書類に目を通し、サインをして、二週間後から行われるという正式な実験のプログラムを説明された。プログラムはある週末の金土日、三日間を病室に監禁され投薬、データ採取を行われ、二週間インターバルをおき、同じ監禁検査をまた行う。また、その二週間のインターバル内と、二度目の監禁検査後の二週間の内、二日に一度の割合でモーニング・チェックを病院で受けることになっていた。

 とまあ、こんな具合に説明を受けたのはいいんだけど、専門用語の多く混じる英語での説明は、実は半分も理解できていなくて、まあ何とかなるだろうと適当にタカを括って、気にしないことにした。これくらいゆったり構える方がアメリカ生活を送っていく上では適しているのではないかと思うのだ。

 (。。。それって間違ってる?!皆さんはくれぐれもマネしないように!)

 

 

 

 

つづく…

最近のトラックバック

2009年11月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30